新宿御苑 歌舞伎町 喫煙所 フレディマーキュリー | ねじまき柴犬のドッグブレス

ハートに火を点けて 4 2030/1/10 フレディ

2023年
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・2030年1月10日(木)

解雇通知を受けてから3日後に僕は失業給付金の申請のため、地元のハローワークまで行った。コロナ渦が収束し世界経済もようやく回復の兆しが見え始めてはいたが、ハローワークは相変わらず大勢の求職者達であふれ、カオスのような状態になっていた。

そのため仕事はすぐに見つかりそうも無かったが、それでも失業給付金と蓄えを合わせれば、とりあえず数ヶ月は働かずに生活ができる計算だったので、僕はつかの間安堵をしていた。

幸い午後の早い時間に、失業給付金の手続きを終えたので僕は京王線で新宿まで行き、新宿御苑まで歩いて行った。新宿までは僕の家の最寄り駅から特急で20分くらいだったので、新宿御苑には以前からよく遊びに来ていた。

もう葉が枯れてすっかり丸裸になってしまったフランス庭園の銀杏並木の下にあるベンチに座って、ずっと読めないでいたミステリー小説を売店で買ったコーヒーを飲みながら読んだ。その日は3月下旬頃の暖かさだとニュースで言っていた。そのため僕は気晴らしに来たが、やはり現在自分の置かれた状況を考えると少しも楽しい気分にはなれなかった。そしてなにより、先日見たサキの夢の事が頭から離れず、本の内容は1行も頭の中に入ってこなかった。僕は諦めて歌舞伎町方面に足を向けた。

以前、歌舞伎町には紙巻き煙草が吸えるゴールデンバットという名前の喫煙所があった。喫煙家の間では割と有名な場所で、僕は規制法案が可決された直後に行った事があり、そこであわよくば紙巻き煙草が吸えないかと思い、ポケットにはZIPPOのライターと紙巻き煙草も忍ばせていた。

喫煙所は地上にバッティングセンターがある雑居ビルの地下3階に目立たぬように作られていたが、そこには換気扇も窓もなく、いつ行っても混み合っていて、目も開けていられない程の煙が立ちこめていた。なぜ換気扇がないのかと店員に聞くと「煙が外にもれるとまずいんですよ。」と言われた。僕は少しの間、我慢をしていたがやがて煙が目に沁みて息苦しくなりそこを出た。その時ばかりは「もう健康的に喫煙ができる場所はないのかな。」とちょっと矛盾した事を考えた。

歌舞伎町に着くと、そこは今では巨大なショッピングモールと化していた。人通りが多く、かつてないほど健全な街並みとなり、雑居ビルは形跡すら無くなっていた。僕は正直なところあまり期待はしていなかったので諦めて家に帰ろうとしたが、その時、人混みの中で100mほど前方を足早に歩いている女性にふと目がとまった。横顔を一瞬しか見られなかったが、サキではないかと思ったからだ。

濃紺のスーツを着て、長い髪を後ろでまとめていたので、かつての面影は無かったし確証は無かったが、直感的にそう感じた。仮にサキだとして会って今さらどうするんだろうと思いながらも、僕はいても立ってもいられず、その女性を追いかけ始めていた。

あちこちで人とぶつかり嫌な顔をされながら必死で後を追ったが、彼女の足取りは思ったより速く、なかなか追いつけそうになかった。しかも狭く入り組んだ路地を縫うように歩いていたので、裏通りを通り抜ける事にもなり客引きにも邪魔をされ、ついには最後は彼女を見失ってしまった。

そして気がつくと僕は古い雑居ビルの前に来ていた。そこは5階建てくらいで昭和の頃から残っているような古い建物だったが、外壁が真っ白で不思議なほど清潔感があった。その前には綺麗に舗装された広いロータリーがあり、中型車ならば20台程度おけるくらいのスペースがあった。ただ仕切り線らしき物がなかったので、駐車専用スペースというわけでも無さそうだった。

エントランスも広くゆったりと作られており、立派な大理石の柱も立っていた。建物の雰囲気からするとマンションか格式のあるホテルのようにも見えたが、テナントの看板も無く、建物名の表示らしきものも無かったので何の目的で作られたかは全く解らなかった。

僕がその建物を興味深く見ていると、不意に僕の後ろから声をかけてきた男がいた。
「建物の中に入ったらどうだ。そのために来たんだろ。」
振り向くと、そこには身長は180センチくらいの長身で細身の体型で濃紺のスーツに身を包み、細身のエンジ色のネクタイをした男が紙巻き煙草を吸いながら立っていた。

一見するとその筋の人間のように見えたが、それにしては品のある優しい語り口調だった。
「いや、僕はただ昔の知人を探していて道に迷っただけです。すぐに帰りますから。」
僕はいきなり声をかけられた事で動揺し即座にそう言ったが、男は全く意に介さなかった。
「まずは建物の中に入ってからゆっくり話をしないか。ここに導かれたというのは君が選ばれた人間だという事だ。これはそう滅多にある事じゃない。」

その男は日本人離れした彫りの深い顔立ちをしていた。そして見事に手入れされた口ひげをはやしており髪の毛と肌の色を除けば、驚いた事にフレディマーキュリーにそっくりだった。
「それに君はここから一人では帰れないだろう。」
男は僕がここに迷い込んできた事を知っているような口ぶりで言った。

確かに僕はここにくるまでに方向感覚をすっかり失っていた。元々方向音痴なので駅までたどり着く自信もなかった。それになぜか都心にいるはずなのに、スマホのアンテナが消えていた。Wi-Fiの電波も見つからなかったので、地図アプリは使えそうになかった。それにしても導かれた?選ばれたって?一体どういう事だろう?

「君も一服どうだ?」
男は煙草を勧めてきたが僕は首を振った。まさか知らない人から煙草をもらい、しかも路上で吸う訳には行かない。

普通ならこんな状況で見知らぬ男に誘われて、閉鎖された空間に入るような事はしない。それでも僕は男の持つ得体のしれない存在感に圧倒され、興味を持ち始めていた。
「それに意外と君の探し人もこの建物の中にいるかもしれないしな。」
そう言って男は煙草を路上に投げ捨て、綺麗に磨かれた黒のウィングチップの革靴でギュッと踏んでもみ消した。この一言が躊躇していた僕を後押しした。

僕は男の言葉に何か逆らえない物を感じて、羽虫が電灯に吸い込まれていくようにふらふらとその後をついて行った。

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