・2030年1月10日(木) PM
建物の中に入ると、すぐにフロントらしきものがあり、ベルボーイのような人間が待機をしていた。僕と男が入るとみな無言でお辞儀をした。まるで高級なビジネスホテルのような雰囲気だったが歓迎のような言葉は無かったのでやはり通常のホテルとは明らかに違っていた。
それから僕はフレディに似た男に連れられてエレベーターで4階まで行き、その中の1室に招かれた。部屋の中はビジネスホテルでいうとダブルルーム位の広さがあった。ベットと小さな冷蔵庫とユニットバス、そして備え付けのライティングデスクがあり、その上にはA4サイズの端末が置いてあった。
男は自分の事をキドと呼んでくれと言った。「まぁ座れよ。」と言われたので僕はベットの上に腰掛けた。キドはライティングデスクの前にある椅子に座り椅子を回転させ、僕の方を向いて言った。
「実は君に頼みたいことが事がある。ここで紙巻き煙草を吸ってレビューを書いて欲しい。簡潔に言えばやってもらいたい仕事は、海外向けに発売する新商品の紙巻き煙草のモニターだ。」
キドは右に首を傾けて、こめかみを押さえながら話をした。癖なのかもしれない。
「なぜ、それを僕に頼むんですか?」
「君は歌舞伎町に紙巻き煙草を吸いに来たんじゃないか?ゴールデンバットはもうなくなったが、ここにいれば好きなだけ吸うことが出来る。」
それからキドは無地のパッケージの煙草をポケットから数種類取り出し、ライティングデスクの上に置いた。
僕はキドの話で疑問を思った事を確認をした。まず、違法行為では無いのか?どのような組織が運営しているのか?個人情報の開示が必要なのか?キドは僕の話を頷きながらひとしきり聞いて答えた。
「では逆に聞こう。紙巻き煙草を吸うこと自体は違法行為かね?」
違うと僕は答えた。
「そうだろう。それと我々は国内で販売をするつもりはない。まだ合法化されている国々への輸出が目的だが、今は規制が厳しくなってきているので非常に高値で取引されている。需要が高まり、ビッグウェーブが来ているんだ。この機会を逃したくない。」
キドはそう言うと、デスクに置いた煙草から1本を取り出し旨そうに吸った。僕も吸いたい衝動に駆られたが、キドのペースにはまりそうだったので我慢をした。
「とはいえ輸出前に品質を担保するためのチェックはしなければならない。煙草自体が不味ければ、当然競合他社には勝てないからね。そのためには最低限のモニターが必要になる。ここまでの話は理解してもらえたかな?」
僕は頷いた。
「つまり我々の組織は単なる民間の営利団体に過ぎない。企業名を明かすのはご容赦願いたいが、その代わり君の個人情報についても一切、開示は求めない。」
キドの話はそれなりに筋が通っていたが、まだ腑に落ちないところがあったので確認をした。
「僕は仰るとおり、喫煙者です。しかも紙巻き煙草が吸いたくて歌舞伎町まで来ました。そういう意味では願ってもない話ですが、何か他に条件とか制約みたいなものは無いんですか?」
するとキドは少し困惑した表情になり、こう言った。
「引き受けてもらえるのなら申し訳ないが、しばらくはここに泊まってもらいたい。」
「それはどうしてですか?」
「一つは短期間の仕事なので集中してやってもらいたいからだ。もう一つは知っての通り今は紙巻き煙草に対して世間の風当たりが非常に強い。だからこの場所をあまり知られたくないので、人の出入りも最小限に抑えたいと思っている。だから、仮に君が仕事を引き受けてくれた場合でも、守秘義務は守ってもらうようお願いしたい。」
家に帰れないとなると話は別だ。僕の気持ちは一気にこの申し出を断る方向にへ傾いた。
「そうはいっても、長期の有給をいきなり取る訳にもいきません。また会社にもそれなりの事情の説明が必要になります。それに外泊する気は無かったので何の準備もしていませんし…。」
僕は失業中であることは、あえて伏せておいた。
キドはその質問について、少し考えてから回答をした。
「まずここにいれば、金銭やクレジットカードは不要だ。食堂も完備しているしコンビニのような施設もあり、必要と思われる日用品もほとんどそろっている。しかもをそれらを全て無料で使用できるシステムになっている。ハウスキーパーがいて掃除やクリーニングも全て彼らがおこなうのでまさにホテルそのものだ。モニター期間は2週間程度だったらどうかな?休暇の理由は、そうだな、入院か親の介護が無難だと思うが。それでも難しいようなら、短縮をしてもいい。」
僕がまだ悩んでいる様子を見せているとキドはさらに後押しをするような事を言った。
「当然の事だが仕事を休んでもらう分、報酬も支払うよ。君の今の年収はどのくらいなのか差し支えなければ教えてくれないか?」
僕は少し考えてから、見栄を張って本来の1.5倍くらいの金額を言ってみた。
キドはそれを聞くと、スマホの電卓を素早く使用して日割りの金額を割り出し、それを数倍にした金額を僕に見せた。
「日当たりでこの金額を支払う。この条件でどうだろう?我々としてもこれが精一杯だ。」
僕は思わず目を丸くした。とっさに2週間分として計算したが、僕の生活水準なら半年くらいは働かないで生活ができそうな金額だった。ハリウッド映画のワンシーンなら「ヒュー」と口笛を吹いているところだ。キドは僕の表情を見て、この契約が合意したと解釈したようだった。
「ではこれで決まりだな。短期間の付き合いになると思うがよろしく頼む。その間、出来るだけ多くのレビューを書いてもらいたいが、それ以外の時間の使い方は自由だ。空いた時間で君の知人を思い存分探してもいい。ただ2階だけは事務所になっているので出入りは勘弁してもらいたいが。」
キドはそう言ってスーツのポケットから「404」と書かれたカード型のルームキーを取り出し、ベットの上に放り投げた。僕はこれ以上聞く事が思いつかなかったので、ただ黙って頷いた。
「ところで、君の事はなんと呼べばいいかな?さすがに呼び名が無いと困る。」
僕はすこし考えてから名前は明かさないことにした。
「ラクダと呼んでください。」
僕がそういうとキドは苦笑いして、
「よろしく、ラクダ君。それと申し訳ないが事情があって外部の電波やWi-Fiは遮断している。会社や家族に連絡が必要ならば、1階に公衆電話があるのでそれを使用してくれ。」
キドはそう言うと少しだけ口元を緩めて握手を求めてきたので、僕もおそるおそる手を差し出した。とても大きくて骨太だけれでも、皺ひとつ無いすべすべとした手が僕の手を包んだ。
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コメント
「とても大きくて骨太だけれでも、皺ひとつ無いすべすべとした手が僕の手を包んだ。」
この内容がキドと言う人物の得体の知れない大きさや、絶妙な、なめくじみたいな気味悪さを表していて、今後どの様な展開になるのか楽しみです。
コメントありがとうございます。確かにキドとこれからの僕の対峙がこの物語のキーになってきます。ご期待に添えるか保証はできませんが(^^;)がんばります。>柴犬