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ハートに火を点けて 6 2030/1/22 喫煙ライフ

2023年
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・2030年1月22日(火)

この施設に来てから早くも10日余りが過ぎた。

キドの言った通り、ここでの生活に一切不自由は無かった。まず建物内の食堂では無料で食事ができた。朝食はバイキング形式、昼夜は日替わりメニューで種類はそれほど多くなかったが、新鮮な素材を使っているのかシェフの腕が良いのか、通常のビジネスホテルとは比較にならないほど美味しいものだった。

日用品や食品も無人のコンビニのような所で、部屋のカード型のキーをかざせば無料で入手する事ができたし、そこに無いものはフロントに頼めば、たいていのものは翌日までには届けてくれた。部屋の掃除や洗濯は全てハウスキーパーがやってくれていたので、僕はここにいる限り、煙草を吸ってレビューを書く事以外は本当に何もしなくてよかった。ついこの間まで会社勤めをしていた事が、遠い昔のように感じられていた。

キドとは施設でたまに顔は会わせていた。忙しいせいか大概は軽い挨拶をする程度だったが、その日は少し時間があったせいか「ちょっと付き合わないか。」と言って僕を誘ってきた。二人で中庭まで行ったが、そこは日当たりが良く各所にガーデニングが施されている、僕もお気に入りの場所だった。

中庭にはビーチパラソルの置いてあるテーブルがあり、そこに向かい合って座った。キドはいつものように何処のブランドだがわからない高価そうな細身のスーツを着ていた。今日は日差しが強いせいか濃いサングラスもかけていた。

キドが突然「コーヒーで良いか?」と聞いてきたので、僕が頷くとスマホを操作し始めた。どうやら食堂にオーダーをしているようだった。少ししてから、ウエイターらしき男がコーヒーを2つ運んできてテーブルの上にぎこちなく置いた。キドは少し驚いた様子で

「お前が持ってくるとは思わなかったよ。元気でやってるか。」と男に声をかけた。男は少し照れた様子で「ええ、おかげさまで、快適に暮らしてます。」と言った。その後キドは珍しく笑いをこらえながら、彼を僕に紹介した。

「こいつは3日前、ベロベロに酔っ払って明け方にエントランスの前で寝ていたんだ。幸いそれほど寒さが厳しくない日で良かったが、よく凍死しなかったもんだ。起きてから話を聞いてみると、同棲していた彼女と喧嘩別れして家出してきたそうだ。なんでも俳優志望で、定職にはつかずバイトで食い繋いでいるが、生活費を入れないのが喧嘩の原因だったようだ、くっくっくっ。モニターはもう足りていたのでどうしようかと思ったが、可哀想な奴だったのでベルボーイとして雇ってやる事にしたんだ。えーと名前はなんと言ったかな?」

「ヒラヤマです。あの時、キドさんには本当に助けられました。ありがとうございました。今は生まれ変わったような気分です。そちらはラクダさんですね。キドさんからお名前は伺っております。よろしくお願いします。」彼はそう言って深々とお辞儀をしたので、僕も「ラクダです、よろしくお願いします。」と挨拶をした。

ヒラヤマは痩せて長身で端正な顔立ちをしており、年齢は20代後半くらいに見えた。髪型は5分刈りに近いくらいに刈り込まれ、黙っていると少し無骨だが今時の青年という感じに見えた。ただなぜか真冬なのにTシャツの上によれたグレーの薄手のジャケットしか着ておらず、奇妙な違和感があった。

キドはそれから「まだ制服の用意ができていなかったんだな。明日には用意させるから。」と彼に言った。彼は「ありがとうございます。」と言って、ご褒美を待つ飼い犬のようにニコニコしてしばらく立っていたがキドに「もう下がって良い。」と言われると急に「シュン」としてその場を後にした。

キドはそれからコーヒーをブラックで飲みながら、Marlboroを箱から1本抜き取り火を点けると、吸い込んだ煙を深呼吸するようにして一度口の中に溜め、少し待ってからゆっくりと煙を吐き出した。とてもエレガントな吸い方で、ニコチンが肺を刺激する瞬間を心底堪能しているようだった。僕も思わず煙草を吸いたくなりCAMELに火を点けて吸い始めていた。

キドはMarlboroを堪能してから、また口を開いた。

「君の書いているレビューはとても評判が良い。独特の目線がありオリジナリティーがある。また、煙草に対する思い入れも感じられた。なかなか読ませる文章だ。」
僕は少し驚いたが礼を言った。レビューを褒められた事は率直に嬉しかったからだ。
それからキドは「出来れば、あと1、2週間モニターを延長してくれないか?」と言ってきた。僕の初めの契約期間は2週間だったので、あと3日で期間が終了になっていたからだろう。

僕は会社に相談をしなければならないからと言い即答は避けたが、心中ではもう少し継続してもいいと思い始めていた。キドは延長の理由を説明するかのように施設の内情を話し始めた。

「実はここにいるのは、ほとんどが闇バイトで募集した連中だ。本当はそんな方法を使用したくは無かったが、現状では止むを得なかった。そのせいかレビューも酷くて使いものにならない。修正を依頼しても、そもそもどこに問題があったか理解する能力がないので、まともな返信も帰ってこない。自分で物を考えるという事ができないんだ。またセンスの欠片もなければ責任感もない。君のようなまともな人間はここでは稀なんだ。」

僕は黙って頷いた。僕がまともな人間かどうかというのは別として、確かにここで会う人達はどこか異様に見えた。皆、一様に俯いて暗い表情をしており、見方によってはストイックで重い規律のある宗教団体のようにも見えた。ただ端から見れば、もちろん僕だって同様に見られたのかもしれないが。

僕があれこれと考えてる間にも、キドは喋り続けた。

「紙巻き煙草販売は、これから予定している新規ビジネスの運用資金を稼ぐための手段に過ぎない。いずれは違法となるような将来性の無いビジネスを続ける気は毛頭無いのでね。私はもっと長期的にみて成長性があり、社会貢献ができるようなビジネスへの参入を考えている。成功すればそれこそWHOも協賛するようなものになるだろう。機密事項なのでまだ詳しく話すことはできないが、実はすでに数社から出資のオファーも受けている。」

そこまで言い切るとキドはまた新しいMarlboroに火を点けた。その前に吸っていたものは、ほとんど吸わないまま燃え尽きて灰になっていた。新規ビジネスの話に夢中になり過ぎていたせいだろう。テーブルに身を乗り出すように話していたので、かなり熱が入っているように見えた。

「一番の問題はそのための人材が不足していることだ。時期がきたら、私の仕事を手伝う気は…いや、さすがに性急過ぎたな、失礼。また改めて話そう。」

その後、キドはそう言ってこの話を打ち切った。

僕は自分には全く縁遠い話のように聞こえたので、ぼんやりとした笑みを浮かべ頷いていた。ただ、当然内心では悪い気はしなかった。それに何しろ今は無職なのだ。選択肢の一つとして考えなくてはならない。それからキドは「ではラクダ君、せいぜい喫煙ライフを楽しんでくれ。」と言って軽い笑みを浮かべて立ち去った。

キドがいなくなると僕は即座に大きくため息をついた。彼は人に緊張感を与えるような何かを持っていた。そのため彼と話した後にはいつも独特の疲労感を感じていた。それは単なるカリスマ経営者が持っている存在感とか威圧感とは違うものような気がした。ただそれが何なのか、僕の中ではまだ明確になっていなかった。

それから僕はすっかり冷めてしまったコーヒーにミルクと砂糖を入れて一口飲んでから、新しいCAMELに火を点け、咳き込まないように軽く吸い込んだ。少しふかし気味にして肺にはあまり入れない、これが僕の吸い方だ。それからゆっくり煙を吐き出すと気持ちが少し落ち着いた。

キドの正体やこの組織にはまだ不明点が多かったが、今の所、ここでの生活に不満は無かったし、何よりサキを探すという目的もあったので、僕は現時点ではモニターの1週間延長を申し出るつもりでいた。

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