──生き延びてしまった男の、静かな悲劇
「ミライカンソクヲハジメマス。ザヒョウヲケイサンシテイマス」
キドのAI、ボサツの機械的な音声が、聞こえた。そして今度は修の現世が再生され始めた。
***
こじんまりした保育園のような場所が浮かび上がった。そこは2階にある応接室のようなところだった。園庭では子供達が無邪気に走り回り遊んでいる光景がよく見えた。修はその風景を穏やかな表情でぼんやりと眺めている。
普段なら、一緒になって遊んでいるところだが、今日は右腕に怪我をしているため、休暇を取っていた。昨日、横断歩道を歩いているおばあさんが躓いているのを見て、庇って転んだときに手をついて痛めたからだ。幸い軽傷ではあったが、医者には全治2週間と言われた。
本来なら修はその時に、猛スピードで突っ込んできた車に轢かれて死んでいるはずだった。
だから今、見ているのは、修が死ななかった場合の未来だ。
***
それからノックの音がして、修の部屋に50代後半くらいにみえる女性が入ってきた。彼女は白髪混じりの短髪、薄ピンクのカーディガンに落ち着いたグレーのスラックスを履いていた。手にはお盆を持ち、湯飲みが二つとお茶菓子が乗っていた。
「お待たせしました、小島先生。こんな時に呼び出したりして本当にごめんなさいね。それと怪我の具合はどうかしら?」
「いえ、絹代先生。こちらこそ、ご心配をおかけしました。怪我も幸い軽傷ですみました。おばあさんも無事だったので、本当に良かったです」
修は立ち上がり、深々と頭を下げた。小島というのが修の姓らしい。
「それは本当に良かったわね。不幸中の幸いっていうのかしら。でもなかなか出来る事じゃ無いわ。本当に立派よ、小島先生。園としても誇らしいわ」
絹代先生は優しいけれどとても芯のある爽やかな女性という印象で、とても穏やかに修を見つめていた。
「お茶とお茶菓子をお持ちしたので、良かったら召し上がって」
「は、はい、ではいただきます」
修は緊張気味にそう言って、お茶をすすった。
「……ところで、小島先生。あなたが最初にこの園に来た頃、覚えてる? もう、20年くらいになるかしら」
「はい、まだ右も左も分からず走り回っていた頃ですね。当時は本当に要領が悪くて、絹代先生には本当にご迷惑をおかけしました。でも懐かしいですね…」
修は当時を思い出したのか少し遠い目をして言った。絹代先生はどうやら園長先生のようだった。そして修はとても尊敬をしている様子がうかがえた。
「そうね、こういう言い方は申し訳ないけど、あなたはとっても不器用だったわね。子供を寝かすにしても、あやして遊ぶにしても。よく失敗して子供と一緒になって泣いてたわね、ふふ、でもそこがいいところでもあったのね、『オサムちゃん』って言われて人気があったもの」
修は褒められて照れたのか、少し顔を赤らめた。
「いや、それも絹代先生いや園長先生にご指導いただいたからです」
「そんな謙遜はしなくてもいいのよ。あなたのにじみ出る優しさは子供達だけではなく私達の癒しにもなっていた」
それから、園長は少し伏し目がちに修にこう告げた。
「ただ、正直に言うわね。失礼とは思うけれど、40歳を越えると保育士という仕事はとても難しくなるの。子供の感性がつかめなくなったり、体力的に厳しくなったりね。転職を考える人も少なくないのよ」
修は思いがけない言葉に驚きを隠せなかった。
「実は系列の介護施設のほうでも、人材を探しているの。今回、あなたがおばあさんを助けた事で、マスコミからも注目されているみたいなの。それで、介護施設のほうもあなたに是非来て欲しいって言っているのよ。あなたの優しさと、その落ち着いた声……すごく向いていると思うけど、どうかしら?」
修は俯いたまま静かに答えた。
「ぼ、僕は…いえ私は子供が好きなんです。独り身で子供もいないので、ここで子供達と過ごすことが、生きがいになってもいます。ですから、できれば今回の件はお断りを…」
修がそう言うと、園長は前を向き、一つため息をついてから声のトーンを変えた。しかし、その表情には明らかな苦悩が浮かんでいた。
「悪いけど、これはもう決まった事なの。……本当は、私も止めたかったの。でも今回は上からの決定で、私にもどうすることもできないのよ」
二十年間、共に歩んできた部下を手放さなければならない無力感が、彼女の表情を歪ませていた。
「私だって、こんな形であなたを送り出したくなかった。でも…園の経営も厳しくて。私一人の判断では、どうにもならないの。本当に、申し訳ないわ」
園長はそう言って頭を下げた。最後の言葉は、ほとんど囁くような声だった。
その言葉は、修に計り知れないほどのショックを与えた。
「え、それはあんまりじゃないですか?僕は確かにもう若くはないです。でもまだまだ子供達には人気もあるし、若い職員達とだって、仲良くしているじゃないですか」
園長は淡々と話を続けた。
「一見、子どもたちは、あなたに懐いているように見えるわね。でも、それは何故かしら?最近、保護者の方から苦情がきているわ。オサム先生がおやつの時間以外に、勝手にお菓子あげているようで困っているって。規則で禁じられているのは知っているわよね?」
「ええ、でもそれは以前からやっている事ですし、園のお金では無く自費で買っているものなのでご迷惑はかけていないつもりでしたが…」
「今は、アレルギーやカロリーへの配慮が、昔以上に厳しく求められる時代なの。昔とは違うのよ。そういう古い考えの人がいると現場が混乱してしまうのよ。もう実際に父兄からの苦情やご意見をずいぶんいただいているわ」
修は『父兄からの苦情』という言葉にショックを受けたのか黙り込んでしまった。
「それからね、言いづらいことなんだけど、職員の女性からも苦情が来ているの。あなたは、数名の若い女性に、手作りのクッキーやらケーキをプレゼントしていたわよね?」

修はハッとして顔を上げた。コッソリ行っていたつもりがすべて筒抜けだったようだ。
「これはいわゆるセクシャルハラスメントになるわね…。これを理由に園としてはあなたに退職勧告をすることもできる。でも私はそうはしたくないのよ、オサム君」
それから園長は修の方に歩み寄り、そっと手を取って優しい口調で言った。
「私もあなたがいなくなるのは寂しいのよ。それにあなたは今まで、本当に頑張って園のために尽くしてくれたわ。だからこそ新しい人生を気持ち良く歩んで欲しいの」
修は園長のその言葉にただ頷くしか無かった。
それから2週間後、怪我が完治すると修は保育園から介護施設へ移動となった。
***
「ここまでは、まだいい。単なる人事異動だからな。修、これからお前は茨の道を歩むことになる」
キドは薄笑いを浮べてそう言った。修はただ呆然とそれを聞いていた。園から異動させられたこと自体で、すでに十分ショックを受けているようだった。キドが続けた。
「介護施設に異動してから数年後、お前は腰を痛めて仕事が出来なくなる。そして生活保護を受けるようになるが、その頃にはまず父親が認知症になり始める。その時にお前はもう50手前だ。それから先に言っておくが、お前は生涯独身だ。当然、自分の子供も持てない。認知症になった父親を介護しながらまた10年ほど過ぎる。ようやく父親が亡くなったと思えば、今度は母親が認知症になる。介護の連鎖が始まるんだ。こうなるともう救いようがないな」
「ボ、ボクは…結婚できないのか?」
修の声は震えていた。結婚という言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちるような感覚があった。休日に園庭で遊ぶ子供達の笑い声を聞きながら、ふと「いつか、こんな家庭を持てたら」と思っていた自分がいた。それは遠い夢物語だったのだろうか。
「子供も持てないし保育士も続けられない…おまけに一生、親を介護するために生きて行かなきゃならないのか?あんまりじゃないか!」
修はそう言って嘆いた。
「なぁ、修。お前も実は亮司と同じなんだよ。あのまま車に轢かれて死んでいれば、父親が一念発起して職探しを始める。それが良かったのかわからないが、認知症にならずに済むんだ。それから数年後に二人は持ち家を売却して、サービス付き高齢者向け住宅に入居する事が出来る。お前がいないからこそ、家を手放す判断もすんなりできたはずだ」
修は何かを、聞き取れないくらい小さな声でブツブツと呟いていた。
「お前の生命保険金も含めると、まずまずサービスの良い所に入れた。仲間も出来て、生涯、幸せな老後を過ごせたようだ。どうだ、お前も本当に良いときに死んだと思わないか?」
キドは勝ち誇ったようにそう言った。
「ボクの人生って……誰の役にも立ってなかったんじゃないか……そんな気がしてきたよ……」
修も亮司と同じようにがっくりと項垂れていた。
「修、惑わされるな。亮司もだ。キドの見せる未来は絶対じゃ無いはずだ。必ず何か未来を変える方法がある。希望を捨てちゃ駄目だ」
「ほう、威勢がいいな、高志。次はお前だ。お前が生きていた場合、ある意味で一番、シンプルだが逆に一番複雑な未来になる。まぁ、見届けるといいさ。お前が一番、未来にしがみついてるように見えるからな」
―俺の番だ。キドが何を見せようと関係ない。俺には戻らなければならない理由がある―
「ミライカンソクヲハジメマス。ザヒョウヲケイサンシテイマス」
それから、ボサツの機械的な音声が聞こえはじめた。
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