それから男は橋の下にある、掘っ立て小屋を指差した。暗闇の中にうっすらとトタン屋根の小屋が見えた。
「これからお前はあの小屋に住んでもらう。期間は俺がいいというまで。それが条件だ」
俺は唖然とした。ホームレスをやれというのか? 俺は急に不安がこみ上げてきた。
「いや、ただ食料とか生きるために必要なものはあるのか?」
男は頷いた。
「生活必需品は小屋の中に全て揃っている。減れば自動的に補充もされる」
俺はそれを聞いて安堵した。なんだ、思ったより簡単な課題ではないかと。
「でも、そこで俺はいったい何をすればいいんだ?」
男はいつになく真剣な眼差しで俺を見つめて言った。
「小屋から一歩も外に出ないこと。それから言葉を一言でも発してもいけない。もしそれが出来なければ、その場でゲームオーバーだ」
「……ゲームオーバーになるとどうなるんだ?」
男は首を振った。
「質問は受け付けない。これは修行だ。お前はただそれを受け入れるかどうか決めるんだ」
俺は釈然としなかったが、受け入れた。もう俺には男に従う以外の選択肢はないと思っていたからだ。そして男の後について河原にある小屋へと土手を下っていった。
小屋の中は見た目とは違い、綺麗に整えられていた。六畳ほどの広さがあり、洗面所とシャワールームと水洗トイレまでついていた。床は真新しい木材で出来たフローリングだった。
ただ、窓は明かり取りの小さな窓だけで開けられない。ガスコンロもなく自炊も出来そうもない、洗濯機もないので洗濯も出来ない。初めはどうすればいいのかと思ったが、やがてその不安は解消された。
三日に一度、おそろしく愛想のない作業着を着た中年の男が部屋に現れた。そして日持ちのする数日分の食料をおいていった。電子レンジはあったので、それで食べ物は温められた。電気ポットでティーパックのお茶を淹れて飲むことも出来た。
汚れた服は引き取られ代わりに新しい着替えが置かれた。男は掃除機をかけ、水回りやトイレ掃除までてきぱきとこなしていった。その間一言も口を聞かなかった。あるいは俺が口をきいてはいけないのを知っていたのかもしれない。
そんな暮らしが一ヶ月くらい過ぎた。スマホはとっくにバッテリーが切れていたが、使うなと言われていた。おかげで時間の感覚は全くなくなっていた。俺は、無人島に漂流した人のように正の字で日数をカウントしていた。おかげで、経過した日数だけはなんとか把握していた。
本も読めずテレビはなく、音楽を聞くことすらできない。ただ、男が数日遅れの新聞を食料品と一緒に数紙置いていってくれたのが唯一の救いだった。俺は三十面ある新聞の活字を一字一句、拾い集めるみたいに読んだ。おかげで今、世界で起きている出来事についてはそこらの評論家よりも詳しくなっていたと思う。
夜になるとドアを開放してただ空を見上げて星を眺めていた。そうしているうちに逆に頭が徐々にクリアになっていくのを感じた。これがいわゆるデトックスなのかと思った。
それから俺は新聞広告の白紙の面に今までの人生で自分の身に起きたことを書き出し始めた。あまりにもやることがないので、自分史を作ろうと思ったのだ。不思議なことに文章にしてしまうと、自分の人生が全く他人の人生のように感じられた。
ある夜、突然、ドアをノックする音がした。この小屋でドアがノックされたのは例の作業員以外では初めてだった。
のぞき穴を見ると、なんと美咲が来ていた。俺は慌ててドアを開けた。
「突然、来ちゃってごめん。中に入っていいかな?」
美咲は言った。声には夜気と同時に戸惑いのようなものも含まれていた。
俺は黙って首を振った。部屋に入れていいのは作業員の男だけだと事前に言われていた。
すると美咲は一瞬、怪訝な顔をしたがすぐに笑顔を作り、唐突にこう言った。
「ねぇトシ君、私たち、もう一度やり直せないかな?」
「えっ」と思わず声が出そうになったので、思わず口を手の平で押さえた。
美咲はあれから謝ろうと思って何度も連絡したそうだ。別れたことを後悔していると。でも電話もSNSも通じなかったので、思い切ってここに来たと言った。
「私がわがままだった。ごめんなさい」
美咲はそう言ってしきりに頭を下げた。俺としては願ってもない話だったが、まだ修行を終えていない身で、その申し入れを受け入れることは出来なかった。俺はただ首を振り、頭を下げた。
「どうしちゃったの? 声が出なくなっちゃったの? そもそもここでトシ君は何をしているの?」
俺は、ひたすら頭を下げ続けた。美咲はしばらく一方的に話し続けた末に埒が明かないと思ったのか「また来るね」と言い残し帰っていった。
次の日の朝、誰かがドアを叩く音で目を覚ました。のぞき穴を見ると立っていたのは母だった。どうしようか迷ったが、やむを得ずドアを開けた。
「トシ君、こんなところでいったい何をしているの? 市役所からも何日も出勤していないけど何かあったんですかって連絡があったのよ。捜索願いを出そうと思ったくらいよ」
この後は美咲の時とほとんど同じだった。「家に帰ってきなさい」と言われ俺はひたすら押し黙り首を振り続けた。それはほとんどお説教に近かった。親の説教をただ黙って聞いているほど辛い時間はない。
母は最後に大きなため息をついて、のろのろと河原の階段を登って去っていった。
俺は後からなぜ、美咲や母がこの場所を知っているのか疑問に思った。可能性があるとしたらスマホの電源が切れる前のGPSで位置情報を確認したのだろうと思ったが、それならば警察官を伴ってくるはずだ。どう考えても不自然だった。
数日後、またドアを強く叩く音で目を覚ました。のぞき穴を見ると数人の作業服やスーツ姿の男達が立っていた。俺は嫌な予感がしてドアを開けなかった。すると外から拡声器のようなものを使って、警告を発してきた。この小屋は不法に建てられた物である。土地も県が管理している物なので、すみやかに退去をしなさいと。
俺は声が聞こえないようにトイレの中に籠もって耳を塞いでいた。数十分だろうか? ドアを叩く音と拡声器の声が鳴り響いた。だが、やがて諦めたのか、彼らは去っていった。
そんな事が続いたある夜、遠慮がちにドアをノックする音がした。のぞき穴を見るとそこには源さんが立っていた。俺は、すぐにドアを開けた。
「よう、悪いね、申し訳ないけど、また何か食べ物があったら分けてくれないかな?」
源さんはいつものように、浅黒い顔に人懐っこい笑顔を浮かべていた。
俺はすぐに、ストックの中からサバ缶とカップ麺を取りだした。カップ麺にはお湯を足してやり、割り箸も添えて渡した。
「いつも悪いね、ありがと」
源さんが手刀を切り、そう言うと俺は笑みを浮かべ頷いた。もちろん声は出していない。
源さんは河原のもう一つの小屋に住む、いわば隣人だ。年齢は不詳だったが、おそらくは四十歳前後。よく川で洗濯をしたり、竈を作って何か料理をしたりしている。
首にはなぜか色の褪せた社員証をかけていた。プラスチックのカードケースは角が欠け、青い企業ロゴがかすれて読める。話している最中、源さんは無意識にそのケースの割れ目を親指でなぞる癖があった。
たまに日雇いの仕事にありつくと銭湯に行き、カップ酒を買ってご機嫌になる、源さん。俺が口のきけないことも、全く気にしていなかった。ただ、俺が食べ物に不自由をしていないこと知ると、たびたび、やってきてはねだるようになっていた。
それでも俺は不思議と源さんを嫌いにはなれなかった。何故だろう? それはきっと社会に出ると自然と削り取られていくような無邪気さや純粋さのようなものを感じられたからだろう。
それに源さんは、たまにカップ酒を差し入れにきてくれた。俺は迷ったが、酒を呑んではいけないという決まりはなかったのでありがたくいただいた。そう、源さんはそういう優しさも持ち合わせていたのだ。以前は大手の電機メーカーに勤めていたと独り言のように言っていたので、何か事情があってこんなところで暮らしているのだろうと思った。
それから、美咲と母、県庁の役人が繰り返しやってきたが、俺は決してドアを開けなかった。美咲と母に対してはドアを開けたい誘惑に何度も駆られたがぐっと堪えた。今度面と向かって話をすれば、何か言葉を発してしまいそうだったからだ。それほど孤独な生活がしんどくなり、人恋しくなり始めていた。
河原での生活は半年を過ぎ、寒さの応える時期になった。部屋には電気ストーブがあったが、すきま風が入ってきたので布団にくるまり寒さを凌いだ。
それでも問題は寒さより声を出せない事だった。誰かと話がしたい、それが無理なら、せめて大声で叫びたい。寂しさを紛らわすためコヨーテ並みに遠吠えをしてみたい。苦しくなるとよく身もだえをしながら、タオルを噛んでじっと我慢した。そんな時はせめてとも思い、鼻声で歌を歌ってみたりした。
それから子供の頃の夢をよく見た。友達と一日中草野球をしていた、夏空はどこまでも青くって、草いきれがつんと鼻をついた。汗もびっしょりかいた。帰りに食べたガリガリ君が死ぬほど美味しかった。
朝起きると何故だか枕がぐっしょりと濡れていた。おそらく寝ている間に俺は泣いていたのだろう。そろそろこの暮らしも限界だなと感じていた。
ある夜、外から何かを言い争う声がして目が覚めた。数人の若い男が騒ぐ声の中に、源さんの声が混じっているような気がした。ドアを少しだけ開けて外を覗いてみた。
隣の源さんの小屋の方を見ると高校生らしき若者がたむろして、笑いながら源さんを引きずり蹴飛ばしていた。
「汚ねえオッサンだな。お前、生きてて楽しいか。ひょっとして生活保護とかもらってんじゃねえか? だとしたら害虫だな。駆除してやる」
そう罵りながら、段ボールで作られた家を壊しては踏みつけていた。源さんは体をダンゴ虫みたいに丸めて、喘ぎ声を出しながら必死で耐えていた。
俺はそれを見て逡巡した。警察に連絡するのが一番良い。でもスマホは使えない。小屋からも出られない。大声で助けを呼ぶこともできない。ただ成り行きを見守るしかなかった。
ただそのうちに、若者の一人がゴムのついたスリングショットを取り出し源さんに狙いを付けてパチンコ玉を発射した。
「ううっ」
源さんが大きなうめき声を上げた。
「命中! これで俺は一発合格だ」
若者はそう言って歓喜した。
——こいつらは塾の帰りか? 大学受験を控えているのか?
そう思った瞬間には、別の若者がスリングショットを奪い取り、源さんに狙いを付けていた。
「俺にもやらせろよ」
源さんはすでにぐったりしていてそれを避ける気力もないようだった。銀縁メガネのフレームは歪み、レンズは泥で汚れていた。
源さんは小声で何度も呟いていた。
「もうやめてくれ、頼むからやめてくれ」
その時だった。源さんの首の紐が、誰かの靴に引っかかった。次の瞬間、ぱきん。乾いた音を立ててプラスチックのケースが割れ、色の褪せたカードが泥に滑った。月の白さに、かすれた青いロゴだけが鈍く光った。
その音と同時に、俺の中で何かが弾けた。うまく説明はできない。でもこれを見過ごしたら、俺は駄目な人間どころか人間ですらなくなってしまう気がした。気がつくと俺は掃除用のモップを掴んで外に飛び出していた。
「うおー」
叫び声を上げてスリングショットを構えている若者にモップを振り上げて襲いかかった。その一撃は肩を直撃し、そいつはうめき声をあげてスリングショットを地面に落とした。
——やった!
それから、俺は「うりゃー、ちぇすとー」とか適当な叫び声を上げてむちゃくちゃにモップを振り回し暴れ回った。初めのうちはそんな俺に誰も近づけなかったが、誰かにタックルを決められて俺は横倒しにされた。
それから体中を蹴飛ばされた。あばら骨が悲鳴を上げた。それでも俺は必死で叫び続けていた。
「源さんは害虫なんかじゃない。ちょっと優しすぎて、敏感すぎただけだ。お前らが狂ってるんだ!」
「は? ウザいんだよ、お前だって何の役にも立たない害虫仲間なんだろ! 害虫には抗議なんてする資格はないんだよ!」
そうして俺は更にボコボコにされ続けた。隣では意識を失った源さんが横たわっていた。その目は閉じられ、涙がうっすらと滲んでいた。
——源さん、助けてやれなくてごめんな。
心の中でそう呟くと意識が急速に遠のいてきた。
——俺、死ぬのかな?
それは俺が人生で初めて死というものを意識した瞬間だった。
気がつくとまた橋の上にいた。時計を見る。午前一時十分。会社を出て橋に着いた時間から数分しか経っていない。隣にはあの男が笑みを浮かべて立っていた。
「テストは失格だ。弟子にはできない。いい線いってたが最後に声を出しちまったな」
「……あれは夢だったのか?」
男はそれには答えなかった。
「でもさ、あの時にお前が助けに行かなかったら、俺はお前をきっと……」
その代わりに優しく俺の肩をポンポンと叩いた。俺は唖然としてその言葉を聞いていた。
「もう二度と会うことはないだろう。お前は人生で成功はしないかもしれない。色々な挫折も味わうだろう。でも、もう大丈夫だ。お前の中の正義を信じてさえいればな」
男はそう言って、後ろ手に手を上げながら去っていった。
翌朝、いつものように目覚ましが鳴った。
ロクに寝ていなかったので体は重かったが、不思議と気分は良かった。
鞄の中には封筒が入っている。昨夜、家に帰ってからすぐに書いた辞表だ。
会社に着くと、上司がいつものように不機嫌な顔でパソコンの画面を睨んでいた。
「おはようございます」
俺は出社するとすぐに上司の所へ行き、辞表を置いた。大きく息を吸う。
「辞めさせてください。今までお世話になりました」
俺は頭を下げた。
「は? お前、何言ってんの?」
上司はそれから、急に言われても困るとか、有給を取ってから改めて考えてみろとかいろいろと言っていたが、俺は全て無視してオフィスを出た。
これからどうするかは、まだ決めていない。また失敗するかもしれない。貯金も少ないし、次の仕事が見つかる保証もない。
でも、もう他人と自分を比較するのはやめた。何度やり直しても俺は俺でしかないんだと分かったから。それでいいんだと気づけたから。
駅の改札を通り抜けるとき、ふと視線を感じて振り返った。
人混みの中に、あの男に似た後ろ姿が見えた気がした。黒いパーカーにジーンズ。でも俺はもう追いかけなかった。小さく笑って、前を向いて歩き出した。
だって橋はもう、渡り終えたのだから。

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