母が聞きたかった曲は、思った通り島倉千代子の「この世の花」だった。母は僕がカセットテープを持って行くと、毎日のように聞くようになった。兄が気を利かせダビングをして、その曲だけが何度も繰り返されるテープを作ってあげると母はとても喜んでいた。
母がホスピスへ転院してから僕は週末には欠かさず見舞いに行くようになっていた。その間に並行して家にある不要物の整理をし、王妃の物語の続編にも取りかかっていたので、多忙な日々が続いたが、それでも母が亡くなる前に物語を完成させたいという思いは以前より強まっていた。
次の話は王妃が軟禁された後から始まる。
ネネの葬儀が終わり数日が過ぎた。アリゼはバハリやルイカとともに遺品の整理に追われていた。必要な物と不要な物とを整理し、形見分けとしてネネの身につけていた装飾品などをバハリから譲り受けた。その時にふと、タフラから渡された桐の箱が目に入った。お礼の品としてプロムスが渡してくれたものだったが、まだその紐も解かずにいた。
「中を開けて見るか。」
ふと思い立ち箱を開けてみると、まずフワッと香水の良い香りがした。箱の底には真白な絹のハンカチが敷いてあり、その上にはカフスボタンが置いてあった。取り出して見てみるとかなりの年代物のようで、ボタンの中央にはかなり薄く掠れてはいたが、紋章のようなものが記されていた。もしかしたらと思い、物入れから王子だった幼い頃に着ていた服を引っ張りだし、服に付いていたボタンと見比べて見ると同じものに間違いないと思った。これは【お国】の紋章だ、そう確信した。それからアリゼは居ても立ってもいられず、港へと向かった。そして桟橋に腰掛け、例の黒船が停泊していた場所を眺めながら感慨に耽り呟いた。
「母様が僕に会いに来ていた?まさかな…。」
それから数年の月日が経過し、王妃の国は変革の時を迎えていた。王が突然死をしてヒソップが王位を継承することになったからだ。亡くなった王は浪費家だったため、国の財政は逼迫していた。それを補うのに様々な税が課されたため、国民の暮らしは困窮し不満も高まっていた。ヒソップは王が死ぬまでその事を知らされていなかった。宰相にその理由を尋ねても、「私は前王の仰せのままに行動をしただけです。」と言い張るだけで埒が明かなかった。ヒソップはその言葉に憤り困惑した。王の葬儀は盛大に行われたが、王妃が呼ばれる事は無かった。それでもすでに王に対する想いは消え、国政に対する興味も無くなっていたので、その事は全く気にならなかった。日々、花壇での花の手入れに勤しみ、それだけでは飽き足らず菜園で野菜作りにも精を出す事で充実した日々を過ごしていた。使用人達は汗と土にまみれ、畑仕事をしている王妃を必死になって止めたが、
「あなたたちまで私に罰を与えるの?こんな楽しい事をさせないなんて!」
と王妃は冗談交じりに言って聞く耳を持たなかった。夜になるとプロムスに取り寄せてもらった蓄音機で「イベリスの咲く頃」を繰り返し聞いた。それが王妃にとっての日課となり、一番の憩いの時間となっていた。王妃は目を瞑り、幼い子供達と過ごしてきた日々を思い出しながらうっとりとその曲に聞き入り、時には決して戻らぬ家族で仲睦まじく過ごしていた頃を思い出し涙した。
王の葬儀の数日後、王妃に突然、王宮から呼び出しがかかった。王妃は気が進まなかったが王命とあっては行かざるを得なかった。
「私はついに修道院にでも送られるのだろうか?」
と思い憂鬱な気持ちになっていたが、その反面、息子のヒソップに再び会えることには、秘めたる喜びを感じていた。
王宮に入ると成人して成長して大人になったヒソップが王座に鎮座していた。
「王妃、いやデイジー婦人、その後いかがお過ごしかな?」
ヒソップは王らしく、厳かに王妃に話しかけた。
「国王陛下、ご健勝そうでなによりです。私は近頃は花壇と菜園作りに精を出し、慎ましく暮らしております。」
「そうか。そんな事までやっておられるのか。」
「はい、やってみるとなかなか楽しいものでございますよ。」
王妃は笑みを浮べてそう言ったが、王はそのまま何かを思案しはじめたのか長い沈黙があった。王妃はそれに耐えきれず自分の方から話を切り出した。
「ところで陛下、本日はどのような御用で、私をお呼びになられたのでしょうか?」
「ああ、実はな、デイジー婦人。内々に話がある。皆、いったん席を外してくれ。」
ヒソップはそう言って王室から家臣を下がらせた。家臣がいなくなると、ヒソップは厳かだった表情を一変させ、王妃に優しく語りかけた。
「デイジー婦人、いや母様。僕は母様に本当に酷い事を言ってしまった。まずはその事を謝りたいんだ。本当にごめんなさい。事情は全部プロムスから聞いたよ。父様から無理矢理、外遊に出されたことも、寂しくなって祖国に行きたくなった事も。そこで偶然、前王に会って子供達が生きている事を知って無性に会いたくなったんだよね。当時の僕はその事に嫉妬していて、母様の事をどうしても許せなかったんだ。でも僕も少しは大人になった。今は、その時の母様の気持ちが痛いほどよくわかる。」
そしてヒソップは目に涙を浮べながら、王妃に懇願した。
「母様、短刀直入に言うよ。僕を助けてくれないか?僕はこんなに早く父様が死んでしまうなんて思ってもいなかった。それにあの人は今、国がこんなに混乱した状況だなんて教えてもくれなかった。ただ毎日、女の人と遊び呆けていただけだった。だから僕はいきなり王になんかさせられてどうしたらいいか解らないんだ。」王妃は突然の息子の告白に混乱していた。
「陛下…ヒソップ。一体どうして?私は王妃としても母親としても貴方に何もしてあげられなかったのに。」
絶縁された息子から、今、自分は助けを求められている。この期待に応えるべきか、いや、もう私もそれほど若くはない。国政など面倒な事に関わらずに身を引いているべきか。その時、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「王妃様、陛下をお助けになっては頂けませんか?私からもお願い致します。」
「プロムス?何故ここにいるの?」
「私も陛下に、この国の再建に力を貸して欲しいと頼まれたのです。ただ私はもう隠居の身でお力になれないとお断りしましたが、王妃様にも協力を仰ぐと聞き、はせ参じた次第です。」
それを聞いた王妃は苦笑をして言った。
「もう、私に出来る事など何も無いわ。花と野菜を育てる事以外にはね。」
「いいえ、貴方様は過去に国政と外交に何年も関わっていらっしゃる。当時の行動力と判断力、存在感は今でも語り草になっています。まさに今の我が国にとって必要な方です。そして何よりもご子息である陛下が貴方様を必要となさっています。」
「そうなんだよ、母様。宰相の言う通りやっていれば良いのかもしれないけど、それでは僕は嫌なんだ。本当の意味でこの国の王になりたいんだよ。でも僕には味方になってくれる人が誰もいないんだ。だから過去の事はお互いに水に流して、僕の側にいて助けて欲しいんだよ。」
「ヒソップ…。」
それから王妃はヒソップの元へ歩み寄りお互いに手を取りあった。そしてしばらくの間、お互いに涙しながら、失われた歳月を取り戻すかのように抱き合った。ああ、こうしてまた息子をこの手に抱ける日が来るとは夢にも思っていなかった。ヒソップ、ごめんなさい。私は本当に愚かで自分勝手な母親だった。私に出来る事なら何でもする。そして今まで傷つけた人達に対して少しでも償いをしたい、王妃はそう誓った。
やがて王妃は国政に復帰をした。まずは宰相や重臣を集め、現在、国が抱えている問題点を洗いざらい吐き出させ、早急に対応しなければならないことを協議した。結果として、前王が残した負債は多く、やるべきことは山積みだった。
「予想はしていましたがこれほど酷い状況とは…。まずは何から手をつけますか?」
プロムスは困惑して王妃に尋ねた。
「最優先にやるべきことは、何十年も続いているこの馬鹿げた戦争をやめる事ね。隣国と和平を結びましょう。そしてあの小さな国を中立国にすることを提案するの。なにしろ、元々肥沃な土地と海があって栄えていたんだから、廃墟のままにしておく手はないでしょう。復興した後にお互いに利益を分配することにすれば、隣国もきっと乗ってくるわ。」
「なるほど、それは良い施策ですな。戦費も馬鹿になりませんし、このまま続けていても、お互いに何のメリットもありませんからな。ただ中立国にするにしても、統治する人間が必要になります。我が国から出しても隣国から出しても、また揉め事が起こりそうですが…。」
プロムスは心配そうにそう言ったが、王妃はすでにその点については想定済みのようで、
「それについては、妙案があるから大丈夫よ。」
と少し茶目っ気のある笑顔を浮べてそう言った。
#失われた王国
コメント