母の余命 ホスピス 世界で一番孤独な人間 | ねじまき柴犬のドッグブレス

母について、このブログについて

2023年
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母が死に瀕している。末期の肝臓がんでもってあと余命一ヶ月。今はホスピスのようなところに入居しているが治療行為はほぼ行っていない。痛みを緩和する治療だけだ。いつ死んでしまうか解らないので、1時間に1回くらいはメールや留守電をチェックしている。何も連絡がなければ母がまだ生きていていて良かったと思う。

母の余命が2年弱くらいしかないことは、事前に知らされていた。自宅で療養しているときには、毎週、部屋の掃除をしたり食事の世話をしにいったりしていたので、十分心の準備をする時間はあったのだけれど、いざ母の死を想像すると鼓動が速くなり止まらない。会社では普通に仕事をしているけど、突然息苦しくなったり、涙目になったり、なんでもないことで笑いが止まらなくなったりする。我ながら少しおかしくなっている。

誰かに話さないと正気を保っていられないけど誰にも話せないし、共有できないのでブログに書いている。少しでも誰かに読んでもらえると思うと気持ちが落ち着く。また幸か不幸か読者なんてほとんどいないので、不特定多数の少数の人になら、読まれてもかまわないかなとも思う。
こういう感情に寄り添ってくれるのは家族だが、僕には残念ながら妻や子がいないので、そういう人はいない。兄達はいるが、皆、母の死を前にしてそれぞれピリピリしており残念ながら共感できるような状態ではない。そう思うと世界で一番孤独な人間になってしまった気がする。

話は変わるけど、僕が雑文集のブログを始めたのは、自分が読みたい物を書きたかったからだと気がついた。ただの日記では駄目で、読み物として自分自身を癒やせる物が読みたくて書き始めたんじゃないかと思う。実際に僕は自分の書いたブログを読んで癒やされており、改めてそう感じた。

母の話に戻すと、母が死んでしまうことは辛いことだが、悲しいという感情とは少し異なる。母が死んだときに泣くだろうかと想像すると、おそらく泣かないんじゃないかと思っている。そういう種類の悲しみではない気がする。それは僕の中の一部分が死んでしまうような喪失感だ。父が死んだとき、愛犬のサリーが死んでしまったときも同じような事を感じた。大事な人の死が、僕の中の無邪気な部分をそっくり持って行ってしまうような感覚がある。そして僕は今までの僕ではなくなり、母のいない世界を生きていくことになる。

昨日、電話で話したとき母は「皆さんに感謝しています、感謝してます。」としきりに言っていた。意識が混濁していて、ほとんど会話にならなかったけど僕が「お母さんに今度、感謝状を持って行きます!」と言ったら大笑いしていた。今はできるだけ電話をしたり、会いに行って話を聞いたり笑わせたりすることしかできない。そのためには僕自身もなんとか正気を保ち続けなきゃと思っている。

本当は母が死んでしまって落ち着いてから、母について何か楽しかったエピソードを書こうと思っていたけど、どうしても今思っていることを書かずにいられなかった。世界で一番孤独な人間として…。

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