「人生をやり直せたら何度でも失敗する?【短編小説】俊春」 | ねじまき柴犬のドッグブレス

俊春(としはる)ー橋の上の仙人- 前編

2025年
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その日、俊春は終電を逃した。

正確には、終電に間に合う時刻にタイムカードを押したが、上司に呼び止められて結局この時間になった。改札の前で時計を見上げる。午前一時を回っている。

深夜残業なんて言葉があるが、残業代が出るわけでもない。みなし残業という魔法の言葉で、すべては月給に含まれていることになっている。

川沿いの道を歩く。タクシーを拾う金もない。歩いて帰れば一時間半くらいだろうか。どうせ明日も——いや、もう今日か——朝九時には出社だ。寝る時間は三時間もないかもしれない。

俊春が大学を卒業したのは二年前だった。あの頃は、人生なんてどうにでもなると思っていた。単位は最低限でいい、名前ばかりのテニスサークルで遊んでばかりいた。仕送りも十分もらっていたのでバイトで稼いだ金は全部遊ぶ金に回した。

就活は四年になるまで全くしなかった。多少の焦りは感じたが、まあ、どこかには引っかかるだろうと楽観していた。結果、引っかかったのが今の会社だった。受かったときは、「さすが俺は最後には帳尻を合わす男だ」と自画自賛していた。もちろん、親や友達はあきれ顔だったが。

でも喜びも束の間だった。「IT系ベンチャー」という響きに騙された。実際は、大手企業の下請けのそのまた下請けで、納期に追われ、バグに追われ、クライアントの無茶な要求に追われる日々だった。

同期は三人いたが、一人は半年で辞め、もう一人は精神を病んで休職した。残ったのは俺だけだ。辞める勇気もなく、転職する気力もなく、ただ惰性で会社に通い続けている。

美咲にも振られた。「トシ君ってつまんない男になったね」と言われた。

そりゃそうだ。デートの約束をしても、急な仕事でキャンセルばかりだった。会えたとしても、疲れ切った顔をしてロクに話も聞いていなかった。だから美咲にそう言われても、俺は黙って見送るしかなかった。

橋の中ほどまで来たとき、足を止めた。

川沿いの橋の欄干に手をかけて、下を覗き込む。暗い川面が、街灯の光を鈍く反射している。高さは十メートルくらいあるだろうか。もし飛び込んだら…どうなる? 即死か。いや、溺れ死ぬとしたら…。

「やめとけ」

突然、背後から声がした。

振り返ると、同じくらいの年格好の男が立っていた。黒いパーカーにスリムのジーンズ姿。フードを被った奥には無表情でどことなく陰気な顔が見えた。身投げするとでも思ったのだろうか?

「何だよ、関係ないだろ」

俺は面倒くさそうに言った。

「そりゃそうだ」

男は欄干に寄りかかり、少し吹き出して笑いながら言った。なんだ、こいつはイカレた奴なのかと思っていると男が見透かしたように言った。

「俺はまともだぜ。でも、今、死ぬのはコスパが悪いと思ってさ。年齢的に、まだ回収前だろ。」

「コスパが悪い? 何が? 俺は死ぬつもりなんてない、なかったさ……」

俺はなぜだか話しているうちに、無性に悲しくなっていた。たどたどしく言葉を返すが、男は俺の言葉を完全に無視して、ただ川面を見下ろしていた。

「お前、もう一度、大学生に戻ってみる気はないか?」

「は?」

何を言われたのか? 全くのみ込めなかった。

「大学の入学式の日に戻してやる。やり直せよ」

「何言ってんだ、お前」

「信じられないか」

男はクスッと笑い肩をすくめた。

「まあ、そうだろうな。でも考えてみろ。今のお前に失うものなんてあるか?」

そんなものは確かに、ない。俺は一瞬、心が揺らいだがすぐに冷静さを取り戻した。

「……馬鹿馬鹿しい、それでどうせ金を取るっていうんだろ?」

「そんなものはいらない」

男は小さく首を振った。

「なんでだ?」

「さあな……俺にも良くわからんけどただの気まぐれだ」

俺は男の顔をじっと見た。正気とは思えないが、どこか真剣な目をしていた。俺は男の表情から何かを読み取ろうとしたが、何かを考えるにしては疲れ過ぎていた。

「……勝手にすれば」

面倒になってそう言うと、男は満足したような笑みをうかべて言った。

「じゃあ、おやすみ。良い夢を」

それから俺は、真夜中にアパートにたどり着き、着替えもせずにベッドへそのまま倒れ込んだ。


目覚めたとき、外がもう明るかった。まずい、これは遅刻だと焦ったが、何か違和感があった。そこは俺のアパートではなかった。よく見ると以前暮らしていた実家、しかも俺の部屋の中だった。カレンダーを見る。2019年4月5日。確か大学の入学式の日だ。

記憶はすべて残っていた。ブラック企業での過酷な日々、美咲に振られた辛い記憶、橋の上でのあの奇妙な男との会話……。

初めは信じられなかったが、鏡に映った若返った自分の姿を見て驚愕した。肌はまだテニス焼けをする前の白さを保ち、すべすべしていた。これは間違いなく十八歳の頃の俺だ。やがて階下から母の声が聞こえてきた。

「トシ君、起きてるの? 今日は入学式でしょ? 遅刻するわよ」

その声を聞いて俺は、本当に過去に戻ってきたんだと確信をした。なぜこんなことが起こったのかは分からない。でもこれでやり直せる。二度と同じ失敗はしない。大学は以前と同じいわゆるFランクの大学だったが、頑張れば未来は変えられるはずだ。

そう決意して、俺は早速、公務員試験の勉強を始めた。もうサークルには入らず、バイトも最低限にして、図書館にこもった。通信教育の講座も受けた。周りの奴らが飲み会で騒いでいる間、俺は参考書を開いていた。

「お前、つまんねえ奴だな」

ゼミの飲み会を断ったとき、友人にそう言われた。

「どうせ社会に出たら蟻みたいにせっせと働かなきゃならないんだ。今だけだぜ、遊べるのは」

その言葉が妙に引っかかった。

確かに、学生時代で一番自由を感じていたのは、大学での生活だった。お金と時間、その両方をこれほどふんだんに使えた時期はなかっただろう。それを捨てて、公務員試験の勉強だけに打ち込む人生が、本当に正しいのだろうか。

そう思うと不意に虚しさがこみ上げてきた。気がつくと、勉強はやめていた。サークルに顔を出し、飲み会に参加し、バイトで金を稼いで遊んだ。就活も前と同じように、なあなあになってしまった。

結局、未来は変えられなかった。いや、ある意味ではもっと悪くなった。今度はブラック企業にすら入れず、コンビニでバイトをしながら実家に身を寄せ、細々と生活する羽目になった。

友人たちが次々と就職し、SNSで充実した生活を見せびらかす中、俺は深夜のコンビニで酔っ払いの相手をしていた。夕食時に母には嫌みを言われ、うんざりして気がつくとまた以前の橋の上に来ていた。

「やっぱり来ると思ったよ」

背後から声をかけられ振り向くと、同じ男が、同じ場所に立っていた。やはり黒いパーカーにスリムのジーンズ姿だった。俺は卒倒しそうになった。

「な、何であんたここにいるんだ?」

俺は欄干にしがみつくような体勢でそう言ったが、男はまた完全に俺の言葉を無視した。そしてただ川面を見下ろしてこう言った。

「お前、もう一度、大学生に戻ってみないか?」

俺はその言葉にただ黙って頷くしかなかった。


三度目の大学生活。俺は今度こそ、後悔をしないような生活を送りたかった。将来も大事だが、今の時間も貴重だ。だから、彼女もつくりそこそこに遊び楽しんだ。

それでも、今までの教訓は忘れなかった。自分には何が向いているのか? そこから始めて、目標を立て、それに対するプランを考えようと思った。そして意外にも自分の中に社会からの承認の欲求、自己実現の欲求があることに気がついた。

ようやくたどり着いた結論は、サラリーマンはやめ起業することだった。大金を払って起業セミナーに通った。金は母に泣きついて出してもらった。そして在学中にビジネスプランを立て実行した。仲間を募って地方の加工食品を販売するWebサイトを立ち上げた。

初めはそこそこの収益を上げたので、俺はすっかり夢中になった。売り上げをまた、新商品の開発や宣伝費に充てて規模を拡大していた。ただ、やがて尻すぼみとなり、自然消滅した。

そして俺の中で何かの糸がプツンと切れ、サイトを閉鎖することになった。仲間からは勝手にサイトを閉鎖したことに対する苦情が殺到したが、俺は耳を塞ぎ全て無視した。そもそも俺は長期間、一つのことに集中をするのが昔から苦手だった。要は飽きっぽいのだ。

そんなわけで最後に残ったのは大量の在庫と幾ばくかの借金だけだった。卒業後もフリーランスとしてブログを立ち上げ食いつなごうとしたが、やはり収益は得られなかった。やむを得ず非正規の派遣の仕事で食いつなぐことになった。母からはしょっちゅう「早く、金を返してくれ」とせっつかれうんざりしていた。

夕食後にまた嫌みを言われ、気晴らしに散歩に出ると、自然と橋の上に足が向いていた。そこには予想通り例の男が立っていた。

「そろそろ、来る頃だと思ってたよ」

男は微笑を浮かべて俺を見た。俺はもう、驚かなかった。男の方を見てただ頷いた。


そして俺は四度目の大学生活を迎えた。

今度は原点に戻ることにした。ひたすら安定した生活を目指す。公務員試験を受けるために勉強に励んだ。過去三度の大学生活で散々遊び尽くしてきたので、もう何かの誘惑に負けることはなかった。

友人から「つまらない奴」と言われても、全く気にしなかった。そして俺は地方公務員の試験に一発で合格して、地元の市役所で働き始めた。市民課に配属され、住民票の発行などの窓口業務をおこなった。仕事は八時から始まり十七時には終わる。

今度は美咲に会う時間はたっぷりあった。逆に出版社で編集者をしている美咲のほうに時間がなく、デートをキャンセルされることが多かった。その事で俺が愚痴を言うと逆ギレをされた。

「みんなトシ君みたいに時間があるわけじゃないんだよ。それにトシ君って、何か妙に老成しちゃってない? 夢とかやりたいことってないの?」

そして俺は人格をケチョンケチョンに否定され、またも振られた。

そして俺は振られたその足で、たそがれたまま橋の上に来ていた。例の男は初めに会った頃より、ずいぶんと穏やかな顔をしていた。まるで古い友人を迎えるみたいに薄い笑みを浮かべていた。男が全く年をとっていないのも不思議だった。

「もう一度——」

「いい」

男が言いかけた言葉を俺は遮った。

「もう十分だ」

男は意外そうな顔をした。

「俺は根本的に駄目な人間だ、それがよく分かった」

俺は欄干に手をかけた。

「何度やり直しても同じだ。だから、お願いがある」

「何だ? 今度は高校生にでもなりたいのか?」

男は嫌みではなく、真面目にそう言っているようだった。

「あんたは何ていうか、特別な人だよな? こんな事が出来るんだから。だから俺をあんたの弟子にしてくれないか? 俺は本気で今の自分を変えたいんだ」

男はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。

「いいだろう。俺は弟子は持たない主義だが、お前とは長い付き合いだ。ただし条件がある。それはこれから俺が言うことを何があっても守ることだ」

俺は無言で頷いた。

ー後編に続くー

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