第2話 チョコバナナクレープ
砂埃が目に入ったので僕は目を閉じて、顔を背けた。
ジャガーは相変わらず疾走を続けている。それとは対照的に僕の意識は
過去へと遡りはじめる。ふと、ここに初めて来た日のことを思い出した。
その日の朝、いつものように玄関で革靴の紐に手をかけた瞬間、視界が歪んだ。
床が猛烈な速さで迫ってくる。何が起きているのか分からなかった。
胸の奥で何かが軋んでいた。息ができなかった。
「オサム!」
妻のユウコの口の動きと声がずれて残響みたいに聞こえた。ユウコは青ざめ、
ひどく取り乱していた。なんとかしなきゃと思ったが体が動かなかった。
意識が薄れていく。最後に見えたのは、ユウコと一緒にニトリで買った
玄関マットの幾何学的な模様だけだった。
それから――何ひとつ覚えていない。
***
気がつくと、僕は見知らぬ空間にいた。
天井が高く、どこまでも続いているように見える。白い靄に覆われており
壁らしきものは見えない。ただざわざわとした音だけが、どこからか
聞こえてくる。自然と体がその音の方に引き寄せられていくのを感じる。
誰かが僕を待っている、そんな気がした。
しばらく歩くと、カウンターらしきものがボンヤリ見えた。
その向こうには若い男が座っており、忙しそうに何かを書き付けていた。
「あの」
僕は声をかけた。すると男は顔を上げ事務的な笑顔で答えた。
「こんにちは。お待ちしていました」
「ここは、どこですか?」
「バルドと呼ばれています。いわば死と再生の、あいだの世界です」
男は淡々と答えた。
僕は言葉を失った。死。その単語が、ゆっくりと意味を持ち始める。
「じゃあ、僕は……」
「亡くなりました。心筋梗塞でしたね。ご愁傷様です」
男は書類に目を落としたまま、手を合わせて話し続けた。
「…オサム様、三十五歳。妻と二人暮らし。出勤時に自宅で意識を失い、
救急搬送されましたが、搬送先の病院で死亡が確認されました」
あまりのことに言葉も出なかった。膝から崩れ落ちていくような脱力感があった。
それでも不思議と涙は出なかった。体というものがないからなのか?
男はそれから書類を差し出した。
「この書類にここでの過ごし方が書いてありますので、目を通しておいてください。
期間は四十九日間。仏教では「中陰(ちゅういん)」と呼ばれている期間です。
その間、あなたには奉仕活動をしていただきます」
「奉仕活動?何のために?」
「現世での罪を償うためです」
男は躊躇わず即答した。
「罪って?僕は、現世で色んな人に迷惑はかけたかもしれないですが、償いを
しなければならないような事をした覚えはないです」
僕がそう言うと、男は首を振った。
「人間は誰しも罪深いものなんですよ。皆、それに気づいていない。
嘆かわしいことです…」
僕はため息をついた。とりあえず、ここのルールに従うしかないのだろう。
「奉仕活動って具体的に何をするんですか?」
「あなたの奉仕先は、コンビニです。バルド第三区画、二十四番のコンビニ
エンスストアです。明日から勤務してください」
コンビニだって?そんなものがあるのか?そもそも奉仕活動なんてできるのか?
「その奉仕活動をした結果、どうなるのですか?例えば天国や地獄に行くとか、
方向性が決まるのですか?」
僕がそう言うと男は薄笑いを浮べて首を振った。
「そういう概念はこのバルトには存在しません。ただ満たされた魂は静かな川を
渡り消滅する。そして新たな旅に出ていくのです。分かっているのはそれだけです」
「そんな抽象的なことを言われても…もっと具体的に教えてください」
僕はそう言ったが、男は無視してまた目線を落として書き物を始めた。
「でもあなたは…とても良いときに死にました」
「良いときに死んだって、どういう意味ですか?」
「それは、いずれ分かります。それより、お待ちの方がいますので…」
振り向くと、いつの間にか僕の後ろにはかなりの行列ができていた。そのためそれ以上の質問はできなかった。僕は疑問を抱えたままその場を後にした。
***
指定されたコンビニは、すぐに見つかった。というよりたどり着いたという感じだ。
バルドは不思議な場所だった。常に周囲は白い靄に覆われてホワイトアウトしたようになっており、視界は極端に悪い。それでも歩いた場所にだけ、なぜか道が出来ている。方向感覚など無いのに、僕は何かに導かれるようにして歩き、気がつくとコンビニが目の前にあった。
自動ドアが開き入店音が鳴った。
店内は商品棚が並び、雑誌が置いてあり、レジがある。照明が明るく、どこか現実離れしているほど清潔だったが、現世と大差のない普通のコンビニだった。
「いらっしゃいませ」
若い女性の声がした。レジの奥からはサングラスをかけた長身の男が顔を出した。高級そうなスーツを着て細身のエンジのネクタイを締めている。髪型はオールバック。コンビニには、いかにも不釣り合いだった。
「オサム君だよな、話は聞いている。とりあえず、ご愁傷様だな」
男は低い声だが、客のほとんどいない店内によく響いた。
「はい。えー…オ、オサムです。お世話になります」
僕は名字から名乗ろうとしたが、どうしても思い出せなかった。あるいは現世の一部の
記憶が欠落しているのかもしれない。
「俺はキドだ。店長をやってる。よろしく」
キドさんは無表情だったが、短い言葉の端々に、不思議と温かみを感じた。
「それから、もう一人バイトがいる。ミカ、ちょっとこっちへ来てくれ」
キドさんがそう言うと、バックヤードから女の子が出てきた。
「はーい」
明るい声だった。
茶髪にピアス、少し派手な高校生という印象だった。
「私はミカ。よろしくね、オサムさん」
胸元のネームプレートにはカタカナで「ミカ」と書いてあった。
彼女をどこかで見覚えがあるような気がしたが――どうしても思い出せなかった。
「ミカ、このおじさんに仕事を教えてやってくれ」
キドさんはそう言って笑みをうかべ、バックヤードへと消えていった。
***
仕事は、普通のコンビニと変わらなかった。
品出し、陳列、レジ打ちなどだ。僕は学生の頃にコンビニでバイトをしていたことがあった。またミカも親切に仕事を教えてくれたのですぐに慣れた。
ただ、一つだけ奇妙なことがあった。
この世界、バルドでは客は、買い物をするときにお金を払わなかった。
正確には、払う「振り」をする。財布から何も取り出さず、ただ手をレジに差し出す。もしくはスマホを取り出し電子決済をする「振り」をした。
「ここではね、お金はいらないの。でも、支払う振りをしなきゃいけないんだって」
ミカがそう教えてくれた。
「何だって、そんな事するんだろうね?」
僕はミカに尋ねてみた。
「そうね、きっと現世でそうしていたから、お金払わないと落ち着かないんじゃないかしら?初めのうちはお札を受け取って、おつりを返すのを忘れてよく怒られたわ」
ミカはそう言って笑った。
***
それからあっという間に数週間が過ぎた。
コンビニは基本的には暇で、仕事に慣れた僕はすっかり手持ち無沙汰になっていた。
それで何となくバックヤードにある調理器具を眺めていた。ホットプレートや
フライパン、フライ返しやハンドミキサーまで揃っていた。
ふと、クレープを作ろうと思いついた。
大学の学園祭で、何度か作ったことがある。チョコバナナクレープ。生地にバナナを
一本丸ごと入れて、チョコシロップをかけただけのシンプルなものだ。
小麦粉に牛乳、バナナ、砂糖等、材料は揃っていた。僕はまず生地作りから始めた。
ボウルに卵・砂糖・塩を入れて軽く混ぜる。薄力粉をふるいながら、牛乳を3回
くらいに分けて加えた。その時に隠し味のバニラビーンズも少し加える。
最後に溶かしバターを入れて混ぜて冷蔵庫で30分休ませれば生地は完成だ。
それから冷やしたボウルに市販の生クリーム入れ、砂糖を少し入れて泡立てた。
生地をホットプレートに流し込み焼き始める。少しするとたちまち懐かしい匂いが立ち上る。
焼き上がったクレープに冷蔵庫で冷やしたバナナを巻き、生クリームをホイップした。
この温度差が大事だ。紙皿に乗せて、仕上げにチョコシロップをこれでもかという
くらいかけてから、スプーンですくい一口頬張ってみる。少しこげた生地が香ばしく、
バニラの香りがとても、優しいかった。懐かしさで胸が一杯になった。
「何食べてるの?」
ミカが覗き込んできた。
「チョコバナナクレープだよ。大学の学園祭で作ってたんだ」
「いいな。私も食べたい」
「いいよ、すぐできるから」
僕がもう一つ作っていると、突然、客がバックルームに入ってきた。
中年の男だった。僕のクレープを見て、物欲しそうに目を見開いていた。
「それ、なんだ?」
「バ、バナナクレープですが…」
「よこせ!」
男はそう言って、手を差し出した。
「いや、これは売り物じゃ…」
「俺は客だぞ!いいからよこせ!」
男は、ミカのために仕上げたばかりのクレープを奪い取った。それから素手でつかみ、
むさぼるように食べ始めた。手や口の周りはチョコやら生クリームやらで、べちょべちょに
なっていたが男は全く気にならないようだった。
「ごちそうさま、美味かった!また来る」
食べ終わると男はそう言って店を出ていった。
僕とミカは生クリームがぼとぼとと垂れて汚れた床を拭きながら、男の後ろ姿を呆然と
見送っていた。
***
翌日、店に行くと、開店前から行列ができていた。
キドさんが腕を組んで、ため息をついた。
「どうやらお前さんの作ったクレープが目当てらしいな」
「そうなんですか?でもあれ、売り物じゃないし、帰ってもらいましょうか?」
僕は恐る恐る言ったが、ミカがすかさず反論した。
「オサムさん、昨日のお客さん見たでしょ? 作ってあげなよ。そうしないと収拾がつかなくなっちゃうよ」
キドさんもお前の責任だというように頷いたので、僕はやむを得ず、クレープを作り始めた。
バルドにも口コミというものがあるのだろうか?客は絶え間なく訪れた。僕はバックヤードから店内にホットプレートを移動し、ひたすら生地を焼き、バナナを包み、チョコをかけ続けた。
初めはその作業が面倒でしかなかった。でもそのうちにクレープを受け取る客の表情に目を奪われるようになった。彼らは普段、買い物をするときは、いつも目の焦点があわず無表情だった。でも僕の作ったクレープを手にしたときはほんの少しだけ、笑った。よく見ていなければ気が付かないほどだ。
僕はその顔を見て、なにかほっこりしている自分に気が付いた。
僕は現世で、こんなにも多くの人に必要とされたことがあっただろうか。
奉仕活動――ここに来た時に言われた言葉がふと頭をよぎった。
そうか、こういう事だったのか…。
僕は一人、小さくうなずいた。

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