——比べられない愛の間で
その夜、高志は誰にも告げず、ログインし、静かに体育館裏の倉庫へ向かった。そこには、あの手押しトロッコが眠っているはずだった。
昼間の授業は、この日のためにサボることにした。もっとも、キドは新入生の受け入れ準備で忙しく、ほぼ自習状態だったので、休んだところで何の問題もなかった。
それよりも紬のこと。観測を続ける中で、紬が柴犬のキーホルダーを今も持っていることを知った。それが、自分と彼女を繋ぐ唯一の糸だと思えた。
――これが、俺を紬のもとへ導いてくれる。
そう信じていた。
亮司がいなくなり、どうすれば現世へ行けるのかは分からない。けれど、紬に「会いたい」という想いは募る一方で、どうしても行動を起さずにはいられなかった。
そして――とりあえず砂漠まで行ってから考えよう、そう思うようになった。
◇ ◇ ◇
倉庫に着くと、扉には意外なことに見慣れぬ南京錠がかかっていた。昨日までは確かに開いていたはずだ。記憶違いではない。扉の前に立ち尽くしていると、不意に遠くから一筋の光が近づいてきた。
反射的に、倉庫の影へと身を隠す。懐中電灯の光が、扉を、そしてその周囲を探るように不安定に揺れたあと、ふと止まった。
「高志、いるんでしょ?出てきなさいよ」
その声に、高志の驚きと同時に安堵を感じた。沙梨の声だった。ただ心なしか、いつもより、ほんの少しだけ声が硬い。
「……ああ、ここにいるよ。沙梨。お前、なんでここに?」
影から姿を現した高志に、懐中電灯の光が正面から差し込んだ。
沙梨は高志の問いには答えずに話を続けた。
「砂漠に行くつもりね?」
「ああ、……紬に会いに行くんだ」
「行けたとして、それでどうするの?自分の本体をどうやって探すのよ?現世にアクセスする方法だって、分かってるの?」
「分からない。だけど、もうじっとしていられないんだよ。紬は、俺に助けを求めてる。あの子は――俺にとって、かけがえのない存在なんだ」
口にした瞬間、自分の言葉に胸が詰まった。
――そうなんだ。あの子は、特別なんだ。
◇ ◇ ◇
沙梨は光を少し落とし、高志に歩み寄った。
「……そんなの、知ってるよ。紬ちゃんがとっても大切だってことくらい。じゃあ、私は大切じゃないの?それとも、まだ私が言ったこと、信じてくれてないの……?」
「私は、あなたの唯一の親友だったサリーなのよ。忘れたなんて、言わせない」
懐中電灯の明かりが、高志の足元で揺れた。沙梨がそっと、高志の胸元に頭を預けてきた。鼻先が触れた、その仕草に、高志の記憶が揺れた。

お腹が空いたとき。散歩に行きたいとき。甘えるように寄ってきた、あの小さな鳴き声とぬくもり。それは、まぎれもなく――高志の良く知っているサリーの仕草だった。
ふと熱い想いが胸にこみ上げてきた。
「サリー……なんだな。会えて……めちゃくちゃ嬉しいよ。だって、お前のこと、忘れた日なんて一日もなかったんだから…」
高志はそっと、沙梨の肩に手を置いた。
「でも、紬とお前、どっちが大切かなんて比べられないんだよ。ただ……紬は今、俺に助けを求めてる。だから、行かなきゃならないんだ」
◇ ◇ ◇
沙梨は震える声で続けた。
「……私だって、ずっと待ってた。死んでからずっと、ここで待ってたのに。キドの手伝いをして、未練組を助けるふりをして、罠にかけて……随分、汚いことも我慢してやってきた。それは全部、あなたに会うためだったのよ」
言葉が途切れた。ひと呼吸の沈黙のあと、絞り出すように言った。
「そしてようやく会えたのよ。ねぇ、分かる?これって、奇跡なのよ!」
泣きじゃくるその声に、かつての無邪気な柴犬と、目の前の少女の姿が静かに重なっていく。
「ねぇ、高志。もういいじゃない。私と一緒に、この世界で暮らそうよ。成仏すれば、亮司にも修にも会えて、また一緒に遊べるんだよ。現世みたいに心が通い合わなくてすれ違うことも、傷つけ合うことも、もうないのよ……それに、高志は……人間には向いてないと思う。……ごめんね」
その言葉は、高志の胸を静かに締めつけた。未来観測で見せられた現世の理不尽。自分という存在の、ズレ。
――そうだ、俺は、人間には向いていない。沙梨、やっぱりお前もそう思ってたんだな……このまま、ここでお前と一緒に暮らせたらどんなにか楽しいだろう……でも――
◇ ◇ ◇
「沙梨、倉庫の鍵……持ってるんだろ?開けてくれないか?」
沙梨ははっとして顔を上げた。
「なぁ、沙梨。俺の現世には殆ど意味なんてなかった。心を通わせる友達もいなかったし、人生の目標みたいなものもなかった。特にお前が死んじゃってからは、そういう想いが一層強くなっていった」
高志は一度言葉を切り、沙梨の目を見つめた。
「でも、偶然、美穂に出会って、奇跡的に結婚して紬が生まれて、俺は初めて生きているっていう実感を持つことができた。この家族ってやつを守るためなら何だってできる、そう思った。――そして俺は今、この想いを紬にどうしても伝えたい…そうしないと苦しくて仕方ないんだ。もしそれが叶わなければきっとあの砂漠を永遠に彷徨うことになる。そんな気がしてならないんだ」
その言葉に、沙梨の表情がゆっくりと変わっていった。どこか諦めにも似た、それでいて深い愛おしさが、そこにあった。
「……これが鍵。でもね、条件がある」
「……条件?」
「私も一緒に行く。砂漠まで」
「勘弁してくれ。お前を巻き込むわけには……それに、キドにバレたら……」
「もう、バレてる」
「……なんだって?」
「今頃、ジャガーで砂漠に向かってるわ。あなたを”迎えに”ね」
◇ ◇ ◇
「お前が知らせたのか……?」
沙梨は静かに首を振った。
「知らせるまでもないの。キド先生は、あなたの動きなんて、とっくにお見通しよ。だから私は、止めに来たの。あなたが…傷つかないように、現世でしたみたいに」
高志は、薄笑いを浮かべて煙草をくゆらせながらジャガーを駆るキドの姿を思い浮かべた。未練組最後の一人を、自らの手で”送る”つもりなのだろう。
それでも、俺は行かなきゃならない。守るべきだったもののために…。
「沙梨……一緒に来てもいい。でも、頼むから、俺の邪魔はしないでくれ」
しばらくの沈黙ののち、沙梨は小さく息を吐いた。
「……もう、止められないのね」
そして、鍵をそっと手渡した。
「分かった。でも……助けることもできないかもしれない。それだけは、分かってね」
「ありがとう、沙梨」
倉庫の扉が、ゆっくりと軋みを上げて開いていく。高志と沙梨は、並んでトロッコに手をかけた。
静かな夜の中を、決意と共に――砂漠へと走り出した。
金属車輪がレールを擦る、乾いた音だけが夜気に伸びていった。
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