キドが授業の概要を一通り説明し終えると、ふと思い出したように黒板の下の隅に『体育』と書き加えた。
「それから、『体育』の授業もある」
そう言って、キドは教壇の前に立ち直し、低く、抑えた声で語り始めた。
「お前たちには、もう肉体はない。つまり本来であれば、どれだけ身体を動かしてもエネルギーは消費されず、疲労も感じないはずだ。……だが、ここに来たばかりの者は、まだその感覚を手放せていない。特に、未練が強いやつほどな」
言葉の最後に、わずかに口角が持ち上がった。
「その感覚を捨てること。それが、解脱への第一歩だ」
キドは満足げにうなずくと、手元の書類を閉じた。
気がつくと、俺たちは校庭のような場所に立っていた。着替えた記憶もないのに、いつの間にか体育着姿になっている。周囲には高い金網があり、校舎の影が静かに落ちていた。
その中央に、一人の男が立っていた。細身で長身。悠然とした姿勢のまま、こちらを見つめている。
「私が体育を担当する。私の事はシナプスと呼んでくれ」
声は低く、静かだったが、不思議な響きがあった。
「わたしは、君たちを解脱へと導くいわば“触媒”のようなものだ」
彼は、濃紺のマントを肩にかけ、黒のタートルネックに洗いざらしのブラックジーンズ、そして膝下まである金具つきの黒いブーツを履いていた。肩まで伸びた黒髪に、鋭く切れ長の目。
体育教師、というよりは……そう、こいつはまるでパンクバンドのボーカルだ…。
(なんだ、こいつ……)
そう思っている間に、彼は唐突に声を上げた。
「まずは走れ。校庭の端から端までダッシュだ。1着になったものから、終了とする」
彼の目は一切の感情を排し、ただ命令を淡々と下している。
「これは……修行だ」
何かの冗談かと思ったが、彼は一切、クールな表情を崩さずそう言った。その威圧感に圧倒され、生徒たちは渋々と走り始めた。

三往復を過ぎたあたりで、俺はもう息が上がっていた。意外なことに、他の連中は軽やかに足を動かしている。俺だけが取り残されている気がした。
(……疲労を感じない、だと? 嘘だろ。めちゃくちゃ苦しいじゃないか)
それとも、これも「未練」のせいなのか。
足が動かず、とうとうその場に座り込んでしまう。
空を見上げると、白い雲がゆっくりと流れていた。
「なに? 高志さん、もうバテてんの? 未練タラタラなんじゃない?」
明るい声が耳に飛び込む。見ると、沙梨が笑っていた。さっきのダッシュで軽々とトップを取っていた彼女は、まったく疲れた様子を見せていない。
「……うるさいな。俺、現世でも走るのは苦手だったんだよ……」
「えー? 現世とか関係ないってば。だって体なんて、もう無いんだからさ」
沙梨はあっけらかんとそう言って、俺の背中を軽く叩く。
「集中して、ほら、解脱〜、解脱〜」
からかうように笑うと、彼女は水を飲むために水道の方へと小走りで向かっていった。
「……やっぱ、あいつちょっと性格悪いな」
高志は息を切らせつつ、ぼやいたが、なぜかその表情には柔らかな笑みが浮かんでいた。
その瞬間、視界の端が陰った。
「貴様、何を休んでいる!」
声の方を見ると、シナプスが腕を組み、見下ろしていた。
「これは修行だ。体の感覚が消えるまで、走り続けろ!」
(……マジかよ)
俺は思わず天を仰いだ。すぐ近くで、沙梨の吹き出す声が聞こえる。
校庭には、軽やかな笑い声と、魂が生み出す不思議な足音が静かに響いていた。
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