雪 幻想 小説 | ねじまき柴犬のドッグブレス

短編小説-雪壁のルール-(後編)

2023年
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ある日、シナプスは意を決したように雪壁を上方に向かって掘り始めた。ある程度掘り進めた所で、ついに雪壁は砕け散り視界が開けた。そこには満天の星空があった。辺り一面には深く雪が降り積もっていたが、誰もそこを歩いた形跡はなかった。水蒸気の結晶が、万華鏡を覗き込んだ時のようにきらきらと空気中を漂い、遠くに湯煙が立っているのが見えた。シンはやわらかな新雪の上に大の字になって寝転び、深呼吸をした。冷気が肺に突き刺さり咳き込んだが、紅潮した顔には雪の中から出られた喜びを浮かべていた。シンとは対照的に、シナプスは遺留品をみつけた警察犬のように、冷静に辺りを検分していた。そして大きく頷くと、シンに向かって言った。
「ここがゴールだ。よくがんばったな。あの湯煙が立っている所から、温泉が湧き出ている。その流れに身をまかせていけば、外界へ出られるはずだ。それとすまないが、ここから先は君ひとりで行ってくれ。」
シンが驚いて飛び起きた。

「君はどうするんだ?」
「私はここに残る。君を導くことで私の役割は終わった。それに元々、私はこの世界の住民なんだ。」
シンは無言で、シナプスの言葉に耳を傾けた。
「正直に言わなくてすまなかった。ただ、ここに来るまでに、君の気持ちを乱したくなかったんだ。そうしたら、この場所には辿り着けないような気がしてね。」
シンは頷いてゆっくりと立ち上がり、リュックを背負い湯煙の出ている方向へ向かった。突然、シナプスが前を遮った。
「ちょっと待ってくれ。ここを出る前に所持品を全て置いていってくれ。」
「なぜ、置いていくんだ?」
「君は、穴を掘ることで罪を償った。この後に必要なのは、あらゆる未練を断ち切ることだ。そのためには、ここであったことを全て忘れなきゃならない。」
「僕は死ぬのかい?」
「それは、解らない。本当に解らないんだ。ただ、然るべき場所に、君はたどり着くだろう。君が本来いるべき場所にね。」
「解った。君がそういうのなら。」
シンは背負っていたリュックを雪の上に放りだした。シナプスはスコップを持って雪を掘り、急拵えの穴を作ってからリュックを雪の中に埋めた。シナプスが満足そうな笑みを浮かべるのを見届けると、シンはそろそろと歩き出した。その前をシナプスが再び遮った。
「まだ何か持っていないか?」
シナプスの顔からは笑みが消え、再び職務に忠実な警察犬の目をしてシンを見つめた。
「いや、何もないよ。これで全部だ。」
シンがそう答えると、シナプスはシンの鎖骨のあたりを指差した。思わず胸に手を入れると、そこには硬く冷たい感触があった。取り出すとそれは、琥珀色の鉱石でできたペンダントだった。何気なくシナプスに手渡そうとしたが、シンは自分でも思いがけない言葉を口にした。
「これだけは、持っていけないかな?」
シナプスは首を振った。
「だめだ。全て置いてゆくんだ。それが君にとって重要なものならば、なおさらだ。」
シンはやむを得ず鉱石を差し出そうとしたが、右手が硬直し、意思に反して動かなかった。掌の感触が、手放されるのを拒否しているかのようだった。
「やれやれ、仕方ないな。」
シナプスは深いため息をついた。そして突然、シンの右手を掴み雪の上に引き倒すと、馬乗りに覆いかぶさった。シンは必死で起き上がろうとしたが、圧倒的な体力差があり、なす術もなかった。シナプスはシンの掌をこじあけ、瞬く間に鉱石を奪った。
「悪く思うなよ、規則なんだ。」

シナプスは独り言のようにつぶやくと再びスコップを手に取り、鉱石を雪の中に埋めようとしてくるりと背中を向けた。シンはその隙に、シナプスの足元に飛びかかった。シナプスは不意をつかれてバランスを崩し、前のめりに雪穴の中へ倒れこんだ。シンは雪に埋もれかけていた鉱石を拾い上げ掴んだ。掌の中で不思議に懐かしい感触を感じ始めた時、鉱石から突如、橙色の光が放たれた。ナトリウム灯のような光に辺り一面の雪が染まり、遠くから雪崩の前兆のような地響きが聞こえた。掌が焼けるように熱かったが、シンは鉱石を手放さなかった。背後からシナプスが叫んだ。
「おい、やめろ、手を放せ。どうなっても良いのか?」

シンは少しずつ、思い出していた。自分の身に何が起こったのかを。その日、時季外れの雪が降った。空っぽになりたくて、バイクを走らせていた。カーブで曲がりきれず、崖から転落。妻のあきらめの表情、空虚な優しさ、明かりの消えた無意味に広い家。無邪気に道を歩いていた。気がつくと、同じ所をぐるぐると廻っていた。辿り着こうと、頑張ってもみた。結局、道を見失った。いや、そもそも道なんかなかったのかもしれない。もうどうでも良いはずだった、それなのに・・・。それでも忘れたくはなかったんだ。記憶の断片が、掌から血液のように流れ出ていた。シンは再び歩き出した。高熱を放つ身体は、雪の中に埋もれることを望んでいたが、決して立ち止まらなかった。地響きは一層激しくなり、粉雪が砂塵のように舞った。

-おしまい-

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