【小説】現世を見守る父の想い──死後の観測授業で見た娘の姿 | ねじまき柴犬のドッグブレス

犬のかたちをした記憶-第四章:現世観測―紬という名の光-

2025年
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その授業は「現世観測」と呼ばれていた。

文字通り、かつて自分が生きていた世界を“観測”する科目だという。
だが、それがどのような仕組みで可能なのか、説明はなかった。ただ淡々と、

「ここにあるのは、想像や記憶の改ざんではない、現実だ。君たちが死んだ後の世界を観測するんだ。そして、君たちが生前にどういう存在だったかを改めて認識してもらう。」

校長のキドは、風貌に似合わない厳粛な面持ちで淡々と語った。

その言葉で教室は俄に静まり返った。

「まずは、このゴーグルをかけてもらう。」

キドはそう言って、各席にゲーム用に使用するVRゴーグルを配り始めた。

「本当はこんなものはここでは必要ないんだが、君たちはまだ現世の記憶が残っているからな。観測しやすいように用意したんだ。本来は魂が直接思念を流し込めば十分なんだが、こういった“機械の形”がある方が君たちは安心するだろう?」

「……ふっ」

キドの唇がわずかに持ち上がった。まるで現世に未練のある者を憐れんでいるような微笑みだった。

全員がVRゴーグルを装着するのを確認してから、キドは深く深呼吸をして目を閉じるよう指示した。

数分だろうか?
皆の気持ちが落ち着いた頃を見計らって、キドの声が聞こえた。

「よし、目を開けて見ろ。君たちが、今、一番見たい物が、観測できるはずだ。」

そうしてまぶたの裏をゆっくり開くと、目の前にひとつの“画面”が立ち上がった。

画面──といっても、ガラスやスクリーンではなかった。
それはまるで、脳の奥に直接浮かび上がるような光景だった。

どこか見知らぬ場所の一戸建ての家だろうか、その一室が見えた。

時間は昼過ぎだろうか?部屋にはうす曇りの光がうっすらと差し込んでいる。

乱雑に色々なものが置かれた部屋には、小さなベッドがあり、その中に1人の少女が身体を丸めて寝転んでいた。
手にはスマートフォン。画面を見つめる視線は、どこか虚ろだった。

高志の鼓動が急速に高まった。

──紬…。

成長した姿に戸惑いはした。けれど、頬の輪郭やあどけないまなざしには、
忘れようもない面影が残っていた。間違いない……かけがいのない大切な娘…。

紬はすでに十六歳になっていたようだった。

高志の記憶にある紬は、まだ五歳だった。
赤い長靴を履いて公園を走り回っていた小さな背中。
お絵描き帳の裏にクレヨンで描いてくれた似顔絵。

色使いがむちゃくちゃで、子供にしてもとても上手とは
言えないものだったが、「ママ、パパだいすき」
つたない文字まで書いて見せてくれた無邪気な笑顔。

「なんで、パパ、ママじゃないんだよ?」とつまらない
ことでムッとした事を思い出した。
気がつくと、いつの間にか涙が滲んでいた。

スマホを見ていても、その視線は何も映していないように見えた。
現実から目を背けたまま、感情を閉じ込めてしまった目。

ただただ心を閉ざして、自分の殻に籠もっている。

引きこもり?
学校は行っているのか?
一体どうしてこんな事に…。

俺の知っている紬はこんな子じゃなかった。
ひまわりみたいな明るさと無邪気さがあって、友達もたくさんいたはずだ。
イタズラ好きで、妻も手を焼いていたくらいだ。
妻の美穂は知っているのか?

高志は感情の波に呑まれ、自分の輪郭がぼやけていくような感覚に襲われていた。

「知ってる子?」

その時、突然、沙梨の声が聞こえ、ハッとして我に返った。
ゴーグルを外して隣を見ると、彼女は高志の様子を心配そうに眺めていた。

「…み、見たのか?俺の現世を。何で見られたんだ?ゴーグルもしてないのに!」

「キド先生も言ってたでしょ?ゴーグルなんて本当は必要ないって。
感情に同調さえできれば、誰かの観測ってできちゃうものなのよ。
少し訓練が必要だけどね。でも、ごめんね、勝手に覗いちゃって。」

沙梨はそう言って、ペロッと舌を出した。

高志は沙梨を怒る気にもならず、

「……まぁそうだね」と、曖昧に答えた。

沙梨にどこまで話すべきなのか、迷った。
なぜなら、自分でもまだ、すべてを受け止めきれていなかったからだ。

授業が終わったあとも、その映像はしばらく頭から離れなかった。

紬のまなざし。
まるで、誰かに触れてほしくて、でも触れられるのが怖いような、不安定な色をしていた。

高志は、ただ見ていることしかできなかった自分に、密かに苛立ちを覚えた。
手を伸ばせば届きそうだったのに、その腕は、どこにも届かない。

廊下を歩いていると、沙梨が後ろからついてきた。

「もしかしてさ、さっきの子……娘さん?」

高志は足を止め、振り返った。

沙梨の声は、やけにやわらかかった。

「べつに、言いたくないならいいんだけど。あんた、すごく見入ってたから…」

沙梨はそう言って、両手を制服のポケットに突っ込んだまま、少し上を見上げた。

この世界には空も太陽もないけれど、彼女の視線の先には、何かがあったような気がした。

それから高志の頭の中で、過去の記憶がふいにフラッシュバックした。
まだ幼い紬が、ベッドに入る前、彼の腕の中で眠そうに瞬きをしていた。

「パパ、つむぎがおとなになるまでしんじゃったりしないでね。やくそくだよ!」

「ははは、紬は『ちょっと気にしぃさん』だね。
大丈夫だよ。パパはまだまだ元気だから。
そんなに簡単に死んだりしないよ。
これからパパとママともっと楽しい事をいっぱいしようね。」

「うん、ぜったいやくそくだよ…。」

紬は小さく呟きながら、静かな寝息を立ててそのまま眠ってしまった。
高志はその愛らしい寝顔をいつまでも飽きずに眺めていた。

紬──会いたいよ……。でも今の俺に、一体何ができるんだ……。

高志は、観測時間が終わり授業を再開したキドの声も上の空で、
ただ窓の外を流れていく雲を眺めていた。

それは、もう二度と戻らない時間のように、形を変えながら空に溶けていった。

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