それから、アリゼが兄の船が座礁した件を口にする事は一切無かった。海が穏やかな日は漁に出かけ、帰ってからは畑仕事に黙々と精を出し何事もなかったかのように日々を過ごした。アイニにもお話を読んで聞かせたり、散歩に連れて行ったりしていつも通り面倒もみていた。
島の市場では時折、イルファンについて心ない言葉を耳にする事があった。
『そもそもあいつは調子に乗りすぎてたんだよ。俺は以前から気に食わなかったんだ。』
『成り上がり者の末路だな。』
バハリは今までイルファンに媚びへつらっていた連中が手の平を返したように嘲笑しているのを聞いて、腹が立って仕方がなかった。それでも当のアリゼ本人が平然としていたので拍子抜けしてしまい、何か揉め事を起すような事はしなかった。バハリはアリゼの様子を見て、「ようやく吹っ切れたか。」と思い安堵をしていたが、ルイカだけは表面的には解らないアリゼの内面の変化を感じ取っていた。
ある夜、ルイカはアイニを寝かしつけてからバハリに留守番を頼み、アリゼを散歩に誘った。アリゼはてっきり、いつものシュロの木のある場所へ行くと思っていたが、気がつくといつもとは違う道を歩いていた。
『今日は、何処に行くんだい?』
『あなたの知らない所よ。でも私にとっては特別な場所。』
ルイカはそれ以上、多くを語らなかった。二人とも無言でしばらく夜道を歩いていると、草むらの中にぽつんと立っている建物が見えた。ルイカはそこに着くとようやく口を開いた。
『ここよ。あんまり雑草が生えてない。やっぱりたまに誰かが来て、庭の手入れをしていてくれているみたいね。』
『この建物は何なんだい?』
『教会よ。さあ、中に入りましょう。』アリゼが言われるがままに建物の中に入るとそこには礼拝堂があり、壁には色とりどりのステンドグラスが飾られ、長机と椅子が一定間隔で並べてあった。窓から差し込んでくる月明かりでぼんやりとイエスの像が飾ってあるのが見えた。それをみてアリゼは急に懐かしさを覚えた。幼い頃に家族で礼拝に行った時の記憶が俄に蘇ってきた。
『ここはずいぶん前に建てられたものなの。でもこの島には昔から崇められている神様がいるでしょ?だから天主教は根付かなかったの。それで今では牧師様もさじを投げて自分の国へ帰ってしまったわ。』
アリゼは島のお祭りに行った時の事を思い出した。そういえば島には固有の神様がいて特別なお社もあり、島の人々はそれぞれ食べ物や宝飾品を奉納して、お祈りをしていた。『確かにイエス様はこの島には似合わないかもな。』
アリゼがぽつりと言った。『そうね。でも、ここにはいつも誰かしら来ていると思うの。そうじゃなければ、庭にはもっと雑草が生い茂っていて、建物の中だって汚れているはずでしょ?』
確かに机の上にはうっすらと埃はかぶっていたが、ゴミが散乱していたりステンドグラスが割れていたりはしていなかったので、何年も放っておかれていた建物という感じはしなかった。『一体、誰が何のために来ているんだろう?』
『誰だかは解らないわ。でも教会に来る目的はみんな同じ、祈るためよ。実は私もあなたが【お国】に行っている間、毎日のようにここに来て祈っていた。あなたが無事に帰って来て、また家族が一緒に暮らせるようにって。』『君はひょっとして僕に兄さんの無事を祈らせるためにここに連れてきたのかい?でも僕は信仰心の薄い人間なんだ。【お国】にいた頃は訳も解らず教会に連れて行かれたけど、それからは一度も行った事はないし、行く気もしなかった。そもそも神様の存在なんて信じてないんだ。』
アリゼがそう言うと、ルイカは静かに首を振って微笑んだ。『大事な事は神様を信じているかどうかじゃないの。私だって本当に信じているかどうかは自分でも解らない。でもそれと祈ることは別なの。私にとっての祈ることは、本当の自分と向き合う事、そして大切な人のために伝えられなかった想いを伝える事。あなたもお兄様に伝えられなかった事があるなら、ここで伝えてみたらどうかしら。』
アリゼはルイカに言われた事が唐突過ぎて、呆気にとられていた。
『僕には、君の言っている事があまり理解できていないかも知れない。ここで祈ったところでどうなるんだ?兄さんがそれで無事に帰ってきてくれるのならいくらでも僕は祈るよ。でも、そうじゃないだろ?』
ルイカは戸惑っているアリゼに、今、自分が感じている事を正直に伝えた。
『あなたが私達のためにお兄様を探しに行くのを諦めてくれた事にはとても感謝しているわ。でも、あなたは今、心に蓋をして無理やり感情を抑えつけている。そういうあなたを見ているのが私は辛くて仕方がないの。だから、吐き出して欲しいのよ、ため込んでいるお兄様への想いを。それでお兄様が無事に帰ってきてくれるかどうかは解らない。それでも祈ることで少しでもあなたの気持ちが楽になるならと思ってここへ連れてきたの。』アリゼはただ呆然とルイカの話を聞いていたが、気がつくと知らないうちに大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
『あれ、おかしいな。俺、一体どうしちゃったんだろう?何で涙が止まらないんだ?それに、この島に来た時にもう二度と泣かないって決めてたのに…。』
『それでいいのよ。心を解放してあげなさい。それに、誰かのために涙を流すことは決して恥ずかしい事じゃないと私は思う。』『ルイカ、僕は祈り方なんてよく解らない。でも、兄さんに伝えたい事は山ほどある。それをただここで吐き出す事しかできないけど、それでいいのかな?』
アリゼは泣きじゃくりながらルイカに尋ねた。
『それでいいのよ、形式や言い回しなんて関係ない。ただ、ありのままの気持ちをぶつければいいの。』
『君も一緒に祈ってくれるかい?』
『もちろんよ。』
ルイカはそう言って、アリゼの腕を掴み一緒に長机の前にある椅子に座った。『さあ目を瞑って。一緒に祈りましょう、お兄様の無事を。』
アリゼは目の前で両手を組み、そして兄の姿を思い浮かべた。
『兄さん、一方的に贖罪なんかして俺の話も聞かずに去って行くなんてずるいぜ。ふざけんな!そんな良い格好しいは俺は許さないからな。あんたは超人なんだろ?こんなつまらない事で死ぬんじゃねえぞ。絶対に生きて帰って来いよ。兄さん、兄さん、お願いだ、俺はもう一度、あんたに会いたいんだ。』
アリゼは心の中で何度も兄に語りかけた。そうしているうちに、いつの間にか心の中に溜まっていたドロドロとした澱のようなものが、少しづつ洗い流されていくような気がした。
『お兄様に想いは伝えられた?』
しばらくアリゼの様子を見つめていたルイカは頃合いをみて話しかけた。
『伝えられたよ。普通の祈りってもんとは程遠いかもしれないけどね。でも悪くなかった。』
アリゼがそう言うと、ルイカはニッコリと笑ってアリゼの頭を優しく撫でた。二人はそれからもしばらくの間、黙って何も語らぬイエスの像をただ見つめていた。
その時僕は、通勤帰りの電車の中にいた。その日は少し残業して疲れていたせいか、ウトウトしながら王子の物語の続きを考えていたので、危うく電車を乗り過ごす所だった。
家に着いたのは夜の9時過ぎだった。美穂はリビングで撮りだめしていた連続ドラマの録画を見ていた。
「おかえり、今日は遅かったわね。ご飯は食べてきたの?」
「忙しくて何も食べてない。何か食べるものはあるかな?」
「おかずは冷蔵庫に入っているわよ。ご飯もラップに包んであるからレンジで温めて食べてね。」
「ありがとう、そうする。」
楽な服装に着替えてリビングに向かう時に、iPhoneに着信履歴が数件入っているのに気がついた。全て母からだった。珍しく留守電が入っていたので聞いてみた。
「シュンくん、お母さんです。ご無沙汰しているわね。ところで大変なのよ。マサトが交通事故にあったってさっき警察の人から電話があったの。でも詳しい事は聞けなかったから、マサトに電話して聞いてみてくれない?じゃあまたね。」
兄が交通事故に?僕はすぐに母に電話をしてみたが、すでに寝ていてしまったのか、気がつかないのか呼び出し音が鳴りっぱなしだった。そして、この時間に母に電話して通じた例しがない事を思い出した。怪我の程度、入院しているのか、病院の名前も何もかも確認のしようがなかった。僕はやむを得ず兄に直接電話をかけた。頼むから電話に出てくれと願いながら。
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