月と既読のあいだに|妻が帰ってきた不思議な続編【短編小説】 | ねじまき柴犬のドッグブレス

月と既読のあいだに

2025年
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この物語は「ある日、妻は月に帰っていった」の続編です。 良かったら前作からお読みください。

ある日、妻は月に帰っていった
結婚12年目のある日、妻が突然敬語を使い始めた。若返っていく妻、遠ざかる記憶。かぐや姫をモチーフにした、切なくて不思議な夫婦の物語。村上春樹風の文体で描く現代ファンタジー短編小説。

香織が家を出て行ってから、数ヶ月が過ぎた。僕は抜け殻になったような日々を過ごしていた。

何もする気力が起きなかった。家族や友人、会社の人間にもこの話はしなかった。妻が突然家を出て行っただけなら、僕はきっと愚痴の一つもこぼしていただろう。

でも急に若返って消えてしまった。月に帰ってしまったかもしれないなんて、とても信じてもらえないだろう。それにもし周りの人間からも妻の記憶が消えてしまっているのかと思うと、ぞっとした。

もしそうならば、僕と香織が過ごした十二年が、全て僕の幻想だったことになってしまう。そんなことは、あり得ない。僕は僕自身の真実を保つために、沈黙を守り通した。


SNSに香織からメッセージが届いたのは、突然のことだった。

「お久しぶりです」

香織のアカウントは、まだ残っていた。でも、僕はそのコメントが本人からのものだとはすぐには信じられなかった。

「香織?」

僕は少し迷ってから震える指で返信を打った。

「はい」

すぐに返事が来た。たった二文字なのに、画面越しに香織の声が聞こえた気がした。

「位相が一時的に戻ってしまったようです」

香織はそう続けた。

「もう少しだけ、この世界で形を保たなければならないみたいなのです」

形を保つ。その言葉に無性に切なさを感じた。

「形を保つっていうのは大変なことじゃないのかい?何か、必要なものはない?」

僕は思わず問いかけた。香織からの返信が来るまで、少し時間がかかった。

「ありがとうございます。でも、お気持ちだけいただきます」

「分かった。困ったことがあったらいつでも言ってね!」

僕がそう答えると、お辞儀をしている熊のスタンプが送られてきた。

それを見て、ここ数ヶ月溜まっていた僕の心の澱が一気に流れ出ていくような気がした。


それから数週間、僕たちはSNSで頻繁にやりとりをした。

香織は平静を装っているように見えたが、位相が戻ってしまったことで、混乱していたような気がする。きっと話相手を必要としていたんじゃないかと思う。何よりも僕も今の香織のことをもっと知りたかった。

ある晩、香織から一枚の写真が送られてきた。青白い月が、夜空に浮かんでいる。

「今日の月、きれいですよ」

というメッセージと共に。僕は急いでベランダに出た。確かに、綺麗な満月が輝いていた。

「本当だ。こっちからも見えるよ」

「同じ月を見ているんですね」

「きっと、そうだね」

僕は返信を打ちながら、香織も今、どこで月を見上げているのだろうかと想像した。それは同じ月なのだろうか。あるいは別の位相という非現実的な空間なのかもしれない。

でもそんなことはどうでも良かった。僕達はその時、月を通して確かに繋がっていたのだから。


数日後、また香織からメッセージが来ていた。

「今日もお仕事、お疲れ様でした。ところでミーちゃんはお元気ですか?」

ミーちゃんというのは僕の実家で飼っている雌の猫だ。香織にとても懐いていた。でも、香織がそのことを覚えていたことに驚いた。

「元気だけど、最近はちょっとご機嫌斜めだよ。反抗期なのかな?」

僕が冗談交じりに返すと、香織はとても真面目な返信をしてきた。

「それは心配ですね。きっと位相が不安定なのでストレスが溜まっているのでしょう」

僕は、位相は関係ないだろうと吹き出しそうになったが、真面目に返信を返した。

「そうかもしれないね。たまには一緒に遊んであげるようにするよ。ところで香織は?元気かい?」

「はい、問題ありません」

「ちゃんと食べてるの?」

「はい。今日はスーパーでお惣菜を買いました。野菜も食べてますから、栄養バランスには気をつけてます」

スーパーでお惣菜? いったいどこのスーパーなんだ?

僕がそんなことをボンヤリと考えていると香織から返信が来た。

「先輩も栄養バランスにはお気をつけください」

「ありがとう。気をつけるよ」

慌ててそう返信した。もし僕たちに何かの理由で疎遠になっていた娘がいたとしたら、こんな風に話すのかもしれないなと思った。


そんなやりとりが続いた数週間後、僕はためらいがちに香織にメッセージを送った。

「引っ越しをすることにしたんだ。もう契約も済ませた」

その時、僕の胸に「チリッ」とした痛みが走った。そして返信までに、微妙な間があった。スマホの画面越しに、香織の心の乱れのようなものを感じた。でもそれはほんの一瞬だった。すぐにいつもの落ち着いた返信があった。

「それはとても良いことです。これからのあなたにご多幸があることを祈っております」

「ありがとう。僕も香織ほどじゃないけど新しい位相で、やり直したいと思ったんだ」

この部屋には、まだ香織の空気と気配とが残っていた。僕だっていつまでも過去の感傷に浸ってはいられない。

僕はそれから話題を変えた。

「そういえば今日、散歩してたら桜が咲いてたよ。ほら、あの近所の小学校の校庭、覚えてるかな?もう桜の季節なんだね」

「そうですね。時間が経つのは早いですね。ただ、私の中では時間の速さが、少し違っているような気がします」

その言葉に、僕は返事ができなかった。位相のズレ。きっと香織と僕の時間の流れは、同じではないのだろう。


しばらくして、香織からまたメッセージが来ていた。それは挨拶もなく、用件だけがシンプルに伝えられていた。

「また位相が切り替わってしまいました。今度は本当にお別れのようです」

「位相が変わると電波が届かなくなります」

「今までありがとうございました。さようなら、さようなら」

これが香織の最後の言葉になった。


僕は既読が付かないことを承知で香織にメッセージを送った。

「今まで、本当にありがとう。みんなが君の事を忘れても僕だけは忘れない。元気でね」

引っ越しをすることを告げ、香織の心の乱れを感じた時、あるいは僕は、香織を引き止めるべきだったのかもしれない。また香織もそれを求めていたのかもしれない。

何度も問い返してみた。でもその答えはまだ出ていない。

新しい部屋のベランダから、僕は今夜も月を見上げる。香織は今、どこにいるのだろう。別の位相で、今は違う月を見ているのかもしれない。

スマホの画面には、送信済みのまま既読にならないメッセージが残っている。でもそれでいい。僕の記憶の中に、香織は確かに存在していた。それが僕にとって、唯一の真実なのだから。

僕はスマホを取り出し、少し考えてから、月に向かって『おやすみ』と打った。

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