——静寂の中で、誰かが私を呼んでいる
朝、紬の世界はどこか止まっているようだった。
階下からは、弟の明るい声が跳ねるように響いてくる。
「ねえ、ママ、今日学校でスポーツ大会があってさ、バスケのトーナメントがあるんだ。お腹空きそうなんでちょっと、おかず多めにしてくれない?」
「はいはい、分かったわよ。唐揚げ増やしといてあげるから座って待ってなさい」
母の元気な声が、それに柔らかく応じる。
まるでドラマのワンシーンのようで、紬には現実のこととは思えなかった。
「たかが校内の大会なんだけど、みんな、気合い入っててさ、俺も頑張んなきゃって思って」
湊の声には、照れと自信が入り混じっている。
——あの子は、ちゃんとこの世界に属してるんだな——
そんな思いが胸の奥でひとつ、鈍く響いた。
それは寂しさでもあり、どこかで安堵でもあった。
布団の中で丸くなったまま、紬は天井を見つめていた。
ヒーターの乾いた空気が肌をかすめ、時計の針が静かに時を刻む音だけが部屋に響いている。
世界が、水の底に沈んでいるみたいだった。
「……起きなきゃ」
声に出してみる。でも、体は布団のぬくもりに抗えない。
スマートフォンの画面をのぞくと、中学時代のグループチャットには、他愛もないやりとりが流れていた。
「おはよう」ってひとことを打ち込む勇気すら、ずっと前になくしていた。
制服を着る気にもなれず、パーカーとスウェットのまま、そっと階下へ降りる。
リビングは朝の光に包まれていたけれど、その光も、コーヒーの香りも、紬の心には届かなかった。
「おはよう、紬」
母の美穂が微笑む。少しふっくらした顔。目元には早起きをした疲れが少しにじんでいた。
その隣には、もう一人の”家族”がいた。新聞を畳みながら、微笑んで「おはよう」と声をかけてくる人の良さそうな男性に、紬は言葉を返せず、小さく頷くだけだった。
「姉ちゃんもさ、たまには一緒に朝ごはん食べようよ」
湊(みなと)が、卵焼きを頬張りながら声をかけた。

母に似た人懐っこい目元で、少し心配そうに紬を見ている。
でも、その視線にも嫌味はなく、ただ純粋に姉を気遣っているのがわかった。
紬が答えずにいたので、湊はそれ以上深く踏み込まず、話題を切り替えた。
「ママ、今日は学校終わったら、隆ちゃんの家で遊ぶ約束してるから少し遅くなるね」
「いいわ、あんまり遅くならないようにね」
「分かってるよ。じゃあごちそうさま」
そう言って席を立った。
——湊はいつも優しすぎる——
そう思いながら弟の背中を見つめた。ランドセルを背負う後ろ姿が、やけに小さく見える。
「……食欲ない」
紬はそう言って席を立ち、ソファに腰を下ろす。
膝の上では、キーホルダーが揺れていた。
柴犬の小さなぬいぐるみがついた、古びた金具。
まだパパが生きていた頃、誕生日にくれたものだった。
パパは、いつか柴犬を飼いたいと言っていた。
「紬と一緒に、毎朝散歩できたらいいな」
そんな言葉と一緒に、このキーホルダーを手に握らせてくれた日を、紬はまだ覚えている。
小さくなったその柴犬の頭を、紬はそっと撫でる。
擦り切れた毛、黒ずんだ鼻先。だけど、それだけは、どうしても捨てられなかった。
その瞬間——
テレビの画面が微かに揺らいだ。湊が箸を置いて、首をかしげている。
ヒーターの音が一瞬遠のき、時計の音も薄れた。
キーホルダーが、手の中でほんのり温かくなった。
まるで、春の朝、湯たんぽを抱いたような、そんなかすかなぬくもり。
気のせいかもしれない。
でも、紬の指先には何かが宿っているような気がした。
一瞬ですべては元に戻り、テレビもヒーターも、何事もなかったように動いている。
紬はキーホルダーを見つめた。
その柴犬の目が、ほんの少しだけ、違って見えた。
まるで、呼ばれている気がした。
桜のつぼみが膨らみ始めた頃、紬は”空気の密度”のようなものを感じ取るようになっていた。
静かな部屋にいると、ふと温度が変わる気がする。
夜、目を閉じると、耳の奥に誰かの気配が波のように寄せてくる。
決まって、誰とも話さなかった日や、落ち込んだ日に限って。
その夕方もそうだった。
母と弟が買い物に出て、家には紬ひとり。
窓際のクッションの上で、膝の上にキーホルダーを置く。
部屋はうっすらと青に染まりかけていた。
風のない部屋で、カーテンがふわりと揺れた。
音が消える。時計の音も、空気のざわめきも。
世界が真空のように、ピタリと止まった。
紬は、そっと目を閉じた。
そのとき——耳の奥、骨の内側に、やわらかな声が触れた。
「……紬……」
胸が、息をするのを忘れたように静かになる。
それは紬が、心の奥で、微かな記憶として覚えていた声だった。
「……パパ……?」
声に出した瞬間、何かが軋むように揺れた。
ずっと閉じ込めていた、やわらかくて、痛くて、触れてはいけないと思っていた想いが、ゆっくりと目を覚ました。
気づかないふりをしていた。けれど、たしかにあったのだ、この気持ちは。
目を開けると、柴犬の鼻先がほのかに光っていた。
まるで「ちゃんと届いてるよ」と言うかのように。
その夜、紬は久しぶりに夢を見た。
広い草原。風もない。音もない。色のない世界。
空も大地も、透明な何かでできているようだった。
その真ん中に、一人の男性が立っていた。
白いシャツに、ネクタイをゆるめた姿。紬が近づこうとすると、彼はふり返った。
「……紬」
その声で、すべてが戻ってきた。
抱き上げられた腕の感触。眠る前に読んでくれた絵本の声。あの朝、「行ってくるね」と言った笑顔。
「パパ……!」
声をあげた瞬間、風景が崩れた。
すべてが光に包まれ、夢が終わった。
目覚めると、キーホルダーの柴犬が、枕元にぽつんといた。
紬はそれを胸に抱きしめた。
——ねぇパパ、まだどこかにいるの?だったら夢の中でもいい、私を助けに来て。
私だけが、みんなから遠いところにいる——
夢の余韻がまだ消えないまま、紬の目から、止めどなく涙がこぼれた。
ただ手元にいる柴犬だけが、頷くように紬を見つめていた。
コメント