犬のかたちをした記憶 第二十一章「静かな呼び声」| 静寂の中で、誰かが私を呼んでいる | ねじまき柴犬のドッグブレス

犬のかたちをした記憶 ― 第二十一章:静かな呼び声

2025年
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——静寂の中で、誰かが私を呼んでいる

朝、紬の世界はどこか止まっているようだった。

階下からは、弟の明るい声が跳ねるように響いてくる。

「ねえ、ママ、今日学校でスポーツ大会があってさ、バスケのトーナメントがあるんだ。お腹空きそうなんでちょっと、おかず多めにしてくれない?」

「はいはい、分かったわよ。唐揚げ増やしといてあげるから座って待ってなさい」

母の元気な声が、それに柔らかく応じる。

まるでドラマのワンシーンのようで、紬には現実のこととは思えなかった。

「たかが校内の大会なんだけど、みんな、気合い入っててさ、俺も頑張んなきゃって思って」

湊の声には、照れと自信が入り混じっている。

——あの子は、ちゃんとこの世界に属してるんだな——

そんな思いが胸の奥でひとつ、鈍く響いた。

それは寂しさでもあり、どこかで安堵でもあった。

布団の中で丸くなったまま、紬は天井を見つめていた。

ヒーターの乾いた空気が肌をかすめ、時計の針が静かに時を刻む音だけが部屋に響いている。

世界が、水の底に沈んでいるみたいだった。

「……起きなきゃ」

声に出してみる。でも、体は布団のぬくもりに抗えない。

スマートフォンの画面をのぞくと、中学時代のグループチャットには、他愛もないやりとりが流れていた。

「おはよう」ってひとことを打ち込む勇気すら、ずっと前になくしていた。

制服を着る気にもなれず、パーカーとスウェットのまま、そっと階下へ降りる。

リビングは朝の光に包まれていたけれど、その光も、コーヒーの香りも、紬の心には届かなかった。

「おはよう、紬」

母の美穂が微笑む。少しふっくらした顔。目元には早起きをした疲れが少しにじんでいた。

その隣には、もう一人の”家族”がいた。新聞を畳みながら、微笑んで「おはよう」と声をかけてくる人の良さそうな男性に、紬は言葉を返せず、小さく頷くだけだった。

「姉ちゃんもさ、たまには一緒に朝ごはん食べようよ」

湊(みなと)が、卵焼きを頬張りながら声をかけた。

母に似た人懐っこい目元で、少し心配そうに紬を見ている。

でも、その視線にも嫌味はなく、ただ純粋に姉を気遣っているのがわかった。

紬が答えずにいたので、湊はそれ以上深く踏み込まず、話題を切り替えた。

「ママ、今日は学校終わったら、隆ちゃんの家で遊ぶ約束してるから少し遅くなるね」

「いいわ、あんまり遅くならないようにね」

「分かってるよ。じゃあごちそうさま」

そう言って席を立った。

——湊はいつも優しすぎる——

そう思いながら弟の背中を見つめた。ランドセルを背負う後ろ姿が、やけに小さく見える。

「……食欲ない」

紬はそう言って席を立ち、ソファに腰を下ろす。

膝の上では、キーホルダーが揺れていた。

柴犬の小さなぬいぐるみがついた、古びた金具。

まだパパが生きていた頃、誕生日にくれたものだった。

パパは、いつか柴犬を飼いたいと言っていた。

「紬と一緒に、毎朝散歩できたらいいな」

そんな言葉と一緒に、このキーホルダーを手に握らせてくれた日を、紬はまだ覚えている。

小さくなったその柴犬の頭を、紬はそっと撫でる。

擦り切れた毛、黒ずんだ鼻先。だけど、それだけは、どうしても捨てられなかった。

その瞬間——

テレビの画面が微かに揺らいだ。湊が箸を置いて、首をかしげている。

ヒーターの音が一瞬遠のき、時計の音も薄れた。

キーホルダーが、手の中でほんのり温かくなった。

まるで、春の朝、湯たんぽを抱いたような、そんなかすかなぬくもり。

気のせいかもしれない。

でも、紬の指先には何かが宿っているような気がした。

一瞬ですべては元に戻り、テレビもヒーターも、何事もなかったように動いている。

紬はキーホルダーを見つめた。

その柴犬の目が、ほんの少しだけ、違って見えた。

まるで、呼ばれている気がした。


桜のつぼみが膨らみ始めた頃、紬は”空気の密度”のようなものを感じ取るようになっていた。

静かな部屋にいると、ふと温度が変わる気がする。

夜、目を閉じると、耳の奥に誰かの気配が波のように寄せてくる。

決まって、誰とも話さなかった日や、落ち込んだ日に限って。

その夕方もそうだった。

母と弟が買い物に出て、家には紬ひとり。

窓際のクッションの上で、膝の上にキーホルダーを置く。

部屋はうっすらと青に染まりかけていた。

風のない部屋で、カーテンがふわりと揺れた。

音が消える。時計の音も、空気のざわめきも。

世界が真空のように、ピタリと止まった。

紬は、そっと目を閉じた。

そのとき——耳の奥、骨の内側に、やわらかな声が触れた。

「……紬……」

胸が、息をするのを忘れたように静かになる。

それは紬が、心の奥で、微かな記憶として覚えていた声だった。

「……パパ……?」

声に出した瞬間、何かが軋むように揺れた。

ずっと閉じ込めていた、やわらかくて、痛くて、触れてはいけないと思っていた想いが、ゆっくりと目を覚ました。

気づかないふりをしていた。けれど、たしかにあったのだ、この気持ちは。

目を開けると、柴犬の鼻先がほのかに光っていた。

まるで「ちゃんと届いてるよ」と言うかのように。


その夜、紬は久しぶりに夢を見た。

広い草原。風もない。音もない。色のない世界。

空も大地も、透明な何かでできているようだった。

その真ん中に、一人の男性が立っていた。

白いシャツに、ネクタイをゆるめた姿。紬が近づこうとすると、彼はふり返った。

「……紬」

その声で、すべてが戻ってきた。

抱き上げられた腕の感触。眠る前に読んでくれた絵本の声。あの朝、「行ってくるね」と言った笑顔。

「パパ……!」

声をあげた瞬間、風景が崩れた。

すべてが光に包まれ、夢が終わった。

目覚めると、キーホルダーの柴犬が、枕元にぽつんといた。

紬はそれを胸に抱きしめた。

——ねぇパパ、まだどこかにいるの?だったら夢の中でもいい、私を助けに来て。
私だけが、みんなから遠いところにいる——

夢の余韻がまだ消えないまま、紬の目から、止めどなく涙がこぼれた。

ただ手元にいる柴犬だけが、頷くように紬を見つめていた。

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