―リードの先にいたのは、君だった
「クゥーン、キュン」
夜の雨がしとしとと降るなか、サリーは申し訳なさそうに振り返って高志を見上げ、短く鼻を鳴らした。
――ごめんね、タカシ。こんな夜に急に連れ出しちゃって。雨が降ってきて寒くて、我慢できなかったの。
サリーがそう言っているような気がして、高志はふっと笑った。
「気にすんなよ、サリー。俺なんか夜中に腹壊すことなんてしょっちゅうだ。おまえも、今夜はあったかくして寝ような。後で毛布、持ってきてやるからさ」
何を言っているのか本当に理解していたわけじゃない。でも目を見ればなんとなく、何を考えているか分かる。サリーとはそういう関係だった。
手早くトイレを済ませて、ふたりは家まで戻った。
「さて、濡れちゃったな…」
高志はサリーを犬小屋へ戻し、洗面所からタオルを取ってきた。雨に濡れて全身ぐっしょりのサリーを、やさしく拭き始める。サリーは目を細め、伏せの姿勢で気持ちよさそうにしていた。
そのとき、奥のリビングの方から母の声が聞こえてきた。
「高志、サリーは大丈夫?ずいぶん吠えてたけど…外、寒かったでしょう?ありがとね」
「ああ、大丈夫。すっきりしたみたい。けど、ちょっと寒そうだったから、毛布とかあれば助かるな」
「わかったわ、ちょっと探してくる」
母の声が穏やかだったことに、高志は少し安心した。
だが――。
再びサリーの方を見たとき、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、濡れた制服のまま、伏せの姿勢で眠っている沙梨だった。髪から水が滴り、頬はほんのり赤い。首輪のようにリードが繋がれたまま、安らかな寝顔を見せている。
「高志…いつもありがとう…」
沙梨が寝言のように、か細くつぶやいた。
その瞬間、玄関の方から母の足音が近づいてきた。
「高志?毛布はなかったけど、タオルケットでいいかしら?湯たんぽも持ってくわよ」
――まずい。
この姿を母に見せるわけにはいかない。沙梨のことをどう説明すればいい?記憶が混乱している。現実と幻想の境界が分からない。
「か、母さん!サリーはもう平気!俺がやっておくから、来なくていいよ!」
「え?なに言ってるの。寒いんでしょう?高志?高志!」
母の足音がどんどん近づいてくる。
高志は頭を抱えた。どうすれば、この”現実”を守れるのか分からなかった。
「高志、高志、高志……」
母の呼ぶ声はいつまでも続いていた。
◇ ◇ ◇
「高志!おい、高志!」
頬にパシッと軽く何かが当たる。高志が目を開けると、そこは砂漠だった。
「目、覚めたか?」
亮司が目の前でペットボトルの水を差し出していた。高志は水を受け取って一口飲み、ようやく思考が戻ってきた。水の冷たさがさっきまでの出来事が夢だったと教えてくれた。

「手荒なことをしてごめんな。うなされていたようだが嫌な夢でも見たのか?」
高志はそれには答えず首を振った。そして記憶をたどった。
「俺…トロッコで砂漠に来て、キドに娘に、紬に会いに行かせてくれと頼んだら、断られて…それから何かされて意識を失ってたんだ」
「そうか、やっぱりだな」
亮司は静かに頷いた。
「修も俺も、同じ方法で気絶させられたよ。あいつは、最初から誰にも現世観測なんてさせる気なかったんだ。輪廻プログラムの邪魔になるからな」
「……でも、亮司。お前、解脱したってキドから聞いたぞ?」
高志の問いに、亮司はうっすらと笑った。
「あれはポーズだよ。キドを油断させるために、乗ったフリをしただけさ」
「じゃあ、どうやって今ここに?」
「バックアップを残しておいた。俺はいわば、コピーのコピー。でも機能は十分だ。行動範囲はこの砂漠に限定されるが、今はそれで十分だ」
そして、亮司はノートパソコンを取り出した。
「あれ、ZENは使えないんじゃ……?」
「別のAIを作った。こいつは俺が現世で独自に開発したものだから、ZENみたいな束縛がない。”リョウマ”って名だ。どうだ、自由人らしいだろ?」
「いい名前だな。お前と兄弟みたいだ。あいつを倒すには、ふさわしい名前だ」
「そうだな、キドが何者かは知らないが、人間の想像力の方がずっと上だ。さあ”リョウマ”、キドの現在地を教えてくれ」
「リョウカイシマシタ。ザヒョウヲケイサンシテイマス」
画面上に、赤い点が点滅した。
「ここか……よし、瞬間移動するぞ。準備は?」
「いつものセリフ、頼むよ」
高志は笑い、目を閉じた。
再びあの、浮遊するような感覚。視界は白く閉ざされ、全身が痺れるような高揚と混乱に包まれる。
◇ ◇ ◇
次に目を開けたとき、ふたりは見知らぬ砂漠の一点に立っていた。
辺りには何もない。建物も、人の気配も。
「……ここ、で合ってるのか?」
「たぶんな」
亮司は数秒考えたのち、突然、地面を掘りはじめた。
「高志、手伝ってくれ」
「え、まじか……」
だが、言われるままに手を動かしていると、意外にもあっさりと硬い感触にぶつかった。
――鉄の扉。
「やっぱり……隠し扉だ。しかも開いてる!」
ふたりが重い扉を開けると、地下に続く階段が、湿った空気と共に現れた。
「ここだ!キドはこの中にいる!後を追うぞ」
高志はふと、立ち止まって亮司に訊いた。
「……でも、仮にキドの行動を止めたとして、その先は?俺は本当に紬に会えるのか?」
高志の声には、かすかな揺らぎがあった。期待と恐れと、後悔と――。
亮司は、真っ直ぐに言った。
「分からない。でも心配するな、”リョウマ”が手伝ってくれる。きっと大丈夫だ」
高志は黙って俯いた。もうここまで来たら、父親として最後まで戦うしかない。
紬のために、サリーのために、すべての大切なもののために。
階段の奥から、微かに光が漏れていた。
キドがそこにいる。そう思うと高志の心臓は激しく鼓動した。
そしてふたりは音もなく、暗闇の中を降りていった。

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