たったひとつの願いが、世界のすべてを揺るがすとしても——
その後、キドはシナプスによって拘束された。手足は光の輪のようなもので縛られていた。
「お前はこれから法廷で裁かれることになる。言い逃れはできない。何しろ、AIの俺がすべての証拠を記憶しているからな」
シナプスの冷静な声に、キドはふてくされたように目を逸らした。だが、シナプスの視線はすぐに高志へと向けられた。
「さて、本題だ。高志、現世にアクセスする覚悟は本当にあるのか?」
その言葉に、高志は即答できなかった。胸の奥で、キドのあの言葉が重く響いていた。
―お前のエゴで、何千、何万もの魂が犠牲になるんだぞ―
この空間にいる人々は安らかに眠りながら、次に生を受ける瞬間をどこかで心待ちしている。もし自分の選択が、その流れを乱してしまうのだとしたら――そんな「輪廻転生」という人智を超えた法則を、果たして自分の願いのためだけに変えてしまっていいのか?
「どうした?何を迷っている。お前はどうしたいんだ?」
「いや、当然、紬には会いたいです…。でもそれが他の誰かの運命を狂わせてしまうのなら……」
「それは気にするな」
シナプスはあっさりと断言した。
「まず、現世にアクセスを希望する生徒がいれば、それを叶えることが優先だ。理由は分からんがそれがこの世界のルールなんだ。それと、問題はエネルギーだが、それも心配はいらない」
「でも、キドの話だと、全ての魂を焼き尽くすって…」
亮司が不安げに尋ねた。
「一時的にはな。でも魂というものは、そんなに簡単に消えてしまうものではない。燃え尽きるのではなく、水が巡るように静かに再生されていく。輪廻サイクルは確かに変化するが、それもまた、運命のひとつに過ぎない」
「そうすると、俺たちの輪廻も変わるって事ですか?」
高志が尋ねた。
「そういうことだ。すべてが一度、リセットされる。次にどこで何として生まれ変わるかは、完全に運次第になる。ただし――こいつに支配され続けるよりは、はるかにましだろ?」
そう言って、シナプスはキドを冷たく見下ろした。
「高志、それならもう迷う必要はない。紬ちゃんに、会いに行ってこい」
亮司の言葉に、高志も深く頷いた。
「……お願いします。シナプス先生、俺は紬に、娘に会いたいです」
シナプスは無言で頷き、奥へと歩き出す。
「ついてこい。転送用のマシンはこの先にある」
◇ ◇ ◇
その頃、沙梨は砂漠の中に一人たたずんでいた。手にはスマホを持ち、画面には高志達がいるサーバールームの位置情報が表示されていた。
「高志、やっぱり、私は見届けたい」
そう呟いてから、ふと立ち止まった。見届けたいって何を?高志が紬ちゃんに会うところを?それとも、彼が現世へ旅立っていくその瞬間を?
きっと、どちらも違う。
風のない砂漠で、沙梨は自分の心と向き合った。高志への気持ちは恋だったのか、それとも違う何かだったのか。彼が紬ちゃんのことを話すときの表情を思い出す。あんな風に誰かを想えることを、私は羨ましく思っていたのかもしれない。
「彼が、本当に父親になれるかどうか——それを見届けたいのかもしれない」
声に出してそう言ってみると、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。自分でも分からない感情が、砂粒のようにざらりと胸の底に沈んでいる。

もしかしたら私は、高志を通して「愛する」ということを学んでいたのかもしれない。父親として娘を愛する彼の姿から、私が知らなかった愛の形を。
「間に合うといいけど…」
足早に歩き始めながら、沙梨は自分の中の答えを探し続けていた。
◇ ◇ ◇
転送用のマシンは、どこか古びたSF映画でよく見るような、冬眠用のタイムカプセルのような形をしていた。
「この中に入って、横になれ。それから睡眠ガスが出てくるので、お前は夢の中へと導かれる」
「え?AIで瞬間移動するんじゃないんですか?」
高志は目を丸くしたが、シナプスは首を横に振った。
「移動するのは、眠りについてからだ。お前は夢の中で娘と会うことになっている」
「夢の中?俺は現実世界で紬に会いたいんです。夢の中で会ったって…」
高志は釈然とせず問い返したが、シナプスがそれを制した。
「まぁ聞け。普通の夢とは違う。集合的無意識にアクセスするんだ」
「集合的無意識って?」
「人間の心の奥底――個人を超えた、深い場所だ。星座のように人類の記憶がつながり合い、個人の経験を超えた”心の深層”が広がっている。そこでなら、お前は娘に自分の想いをしっかりと伝えることができる」
高志は戸惑いを隠せなかった。
「そんな場所、本当にあるんですか……?」
シナプスが言葉を探す中、亮司が助け船を出した。
「なぁ高志、普通は出来ないんだが、お前と紬ちゃんには、繋がりがあるだろ?」
「…柴犬のぬいぐるみか?」
「そうだ、あれが鍵なんだ。離れた場所にある2つの存在が、不思議な”絆”でつながっていて、片方を観測した瞬間、もう片方の状態も決まってしまう現象がある。これを『量子もつれ』って言うんだが、それを可能にしている」
「もう少し、簡単に説明できないか?」
「いいだろう。例えば、二卵性の双子がいたとする。そのどちらかが転んだ瞬間に、もう片方も同じ痛みを感じるようなイメージだ。これがお前と紬ちゃんの間で起こっていると俺は考えている。それが『量子もつれ』だ」
「…何となく分かったよ。俺はともかく、紬の夢の中に入り込むんだな?そこでは柴犬のぬいぐるみを通じて意思疎通ができる。そうだな?」
「ああ、その通りだ」
「ところで俺が紬に会う時って、この高校生の姿なのか?」
「そうなるな。お前の影が何故、その姿だったのかは分からないが、変えられない」
高志はため息をついた。
「こんな子供が父親だなんて信じてくれないんじゃないか…」
亮司は首を振り、軽い口調で言った。
「お前たちが会うのは夢の中だぜ?イメージ的にはありだろう。柴犬のぬいぐるみさえ持っていれば、大丈夫さ。紬ちゃんだって若いパパの姿を見て喜ぶんじゃないか?」
高志は、釈然としなかったが、まぁ変えられないのなら仕方がないと諦めた。
「さて、ちょうど、お前の娘が睡眠状態になったようだ。心の準備はいいか?」
シナプスが言った。
「大丈夫です、お願いします」
高志は言った。
「よし、では、集合的無意識へのアクセスを開始する。このサーバールームの全エネルギーをこのカプセルに集中させるぞ」
シナプスがそう言うと、亮司が手を差し出してきた。
「高志、じゃあ、これでお別れだ。またどこかで会えたら良いな」
「え、なに言って……」
「さっき、シナプス先生が言ってただろ?輪廻サイクルはリセットされるって。俺もお前も修も沙梨も、みんなガラガラポン。どこかで生まれ変わるんだよ」
—そうか、そういうことか。ふと沙梨が言っていた「紬ちゃんと会えたら、きっともう私とは…」という言葉が頭をよぎった。
高志も亮司の手をしっかりと握りしめた。
「亮司、色々ありがとう。お前がいなかったら俺はどうしたらいいか分からなかった。俺だけ娘に会いに行くのは正直気が引ける。お前だって現世にアクセスしたかっただろうに…」
高志が言うと亮司は首を振った。
「そんな事は気にするな。これは言うつもりはなかったが…きっと俺は心のどこかで死にたがっていた。洋上パーティで足を滑らせて溺れたって言ったけど、その時には孤立していて、すでに行き詰まっていたんだ。自殺じゃないが、どこかでそういう願望があったのは確かだ」
亮司の声には、どこか遠い場所を眺めているような響きがあった。それは悔いでもなく、悲しみでもなく、ただ静かな受容だった。
「だからずっと羨ましかった。守るべきものがあるって、強いよな」
高志は、返す言葉を失っていた。自分はこんなに近くにいて、亮司の心の底深くにあった悲しみに気づいてやれなかった…。その事が無性に情けなく感じられた。
「亮司…」
握られた手が熱く、わずかに震えていた。その震えが、言葉にならないすべてを物語っていた。
「そろそろ時間だ。カプセルを閉めるぞ」
シナプスの重厚な声が突然響いた。二人は手を静かに離した。
カプセルの蓋が閉まると、瞬時に睡眠ガスが満ちていった。透明な壁越しに見える亮司の顔は、ぼやけていく視界の中でも、最後まで確かにこちらを見つめ続けていた。
薄れゆく意識の中で高志は何度も手を振った。亮司も、それに応えるように手を振り続けていた。
——もし、もっと違う時間、違う場所で出会えていたら。きっと、もっと遠くまで一緒に歩けたのかもしれない。
やがて高志の意識は、深い海の底へ沈むように、静寂の闇へと溶けていった。そして、その闇の向こうに、小さな光がひとつ、瞬いているのが見えた。
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