──愛し方を知らない男が失ったもの
高志の現世がゆっくりと再生され始めた。
高志は賃貸住宅のリビングで、妻の美穂と何やら話をしていた。娘の紬はどうやら外出しておりそこにはいないようだった。
リビングの窓から、白いカーテン越しに午後の光が差し込んでいた。テレビはついていない。紬の声もしない。部屋には、沈黙だけが残っていた。
「ねえ、ちょっと、話があるの」
妻の美穂の声がどこか遠くから届いたような感じで聞こえた。高志はノートパソコンの画面を見つめたまま、少し間を置いてから顔を上げた。
「ん? ええ……どうしたの?」
その目は、焦点が合っているようで、どこかぼんやりしている。美穂は、その表情を見て、いつものように憂鬱な気分になった。
「私、出ていこうと思う。……この家を、出ていくって意味」
高志の思考は一瞬にして停止した。頭の中で「出ていく」という言葉が繰り返された。高志はその言葉を何度も反芻してみたが、その響きは言葉としての意味を成さなかった。
「……何を言ってるの?出ていくって、ここを?」
「そうよ、つまり、離婚しましょうってこと」
美穂は高志に伝わるように、辛抱強く言葉を継いだ。固い決意が、言葉の一つ一つに滲んでいた。
「……俺、また、君に何かしちゃったかな…」
そう言った高志の声には、怒りも悲しみもなかった。ただ、言葉の響きの中には「何か大切な事を忘れてしまったかもしれない」という焦りのようなものが含まれていた。
美穂は苦笑するように息を吐いた。
「いいえ。高志は、いつも”何かしちゃったかな”って聞くけど……何もしてない。でも、何も”通って”ないの」
「通ってない……?」
「うん。私も、紬も……何年も、話してきたつもりだったよ。でも、いつもすり抜けていくの。あなたに話しかけても、届いていないみたいで。目は合ってても、心が通ってない」
高志は目を伏せ、言葉を探しているようだった。
「……ごめん。でも俺、本当に、気づいていないわけじゃなかった。それでもどうしたら良いのか、わからなくて…」
「わからないままにされた側は、すごく、つらいのよ」
テーブルの上に置かれたマグカップの下に、薄い水の輪ができていた。美穂はそれを指先でなぞるように見つめた。
「紬もね、この前言ってた。『パパ、いつも笑ってるけど、わたしのこと、ほんとは見てないよね』って」
高志の胸の奥に、鈍い痛みが広がる。先月の紬の誕生日、仕事で帰りが遅くなって、結局ケーキを買い忘れたこと。美穂が体調を崩した時も、「大丈夫?」と声をかけただけで、具体的に何をすればいいのかわからず、オロオロしていた自分。いつも「聞いている」つもりで、実は何一つ理解できていなかった。
「……それでも、俺は家族でいたいって、思ってた。一緒にいるだけでもいいって」
「あなたの気持ちはそうでしょうね…でもね、このままじゃ持たないの、私も紬も」
そう言って立ち上がった美穂の背中を高志は黙って見送るしかなかった。
玄関の方から、ガチャガチャという何かを運び出す音が聞こえた。美穂が少しずつ荷物をまとめはじめたのだと思った。しかし、それでも体は動かない。いや、動かせなかった。
思考は重く、言葉はすり抜け、何をどう言えばいいのか、まるで見当がつかない。
──何が、いけなかったのか。どうしても分からなかった。
いや──頭では、分かっていたのかもしれない。けれど、それを言葉や行動に移す術が自分にはなかった。誰よりも家族を大切にしているつもりだったのに…。
「なあ……俺にもう少しだけ時間をくれないか?」
美穂が出て行く間際にようやく口から出た言葉は、頼りなく震えていた。美穂は小さく振り返り微笑んだ。
「もう、十分待ったわ…。でもあなたは変わらなかった。いいえ、私の力ではあなたを変えることが出来なかったのね…ごめんなさい」
「美穂、君が謝る必要は何もないよ。これは俺の問題で…」
高志はそう言って首を振った。美穂はしばらく何も言わなかった。静かすぎる部屋の中で、壁の時計の秒針が一つずつ、静かに時を刻んでいた。
「変わるって、簡単じゃない。でも…きっと高志を理解してくれる人もいるよ。私もこれから『通える』人を探す、紬と一緒にね」
その声には、怒りも恨みもなかった。ただ、何かを終える人間の、静かなあきらめがあった。
高志はうなだれ、膝の上で手を組んだ。手のひらに、冷たい汗がにじんでいることに気づいた
「紬には?何て説明するんだ?」
「しばらくは、私の実家で一緒に暮らす。あの子にも “パパのせい”って言うんじゃなくて、”お互いに合わなかった”って、そう言うつもり」
「……ありがとう」
高志は、自分の口からその言葉が出たことに、少し驚いた。だが、それ以外に言えることはなかった。
夕暮れが近づくと、窓辺の光がオレンジ色に染まり、カーテンの影が床に長く伸びていた。
やがて、美穂は再び玄関へと向かい、小さな鞄だけを持って出ていった。娘のいる場所へ。心がまだ繋がっていた場所へ。
そして、高志は静かに座り続けていた。ソファの沈みが、彼の存在の重さだけを確かに伝えていた。テレビもつけず、音も鳴らさず、高志は初めて「静けさ」の中に、自分の孤独の輪郭を見た気がした。
高志は36歳の時、通勤途中で靴紐がほどけ、それを結び直している間に目眩を起して倒れた。すぐに緊急搬送されたが、心筋梗塞を起しており、30分後には息絶えていた。これは高志が息絶えず、生き延びた先の未来だった。
―俺は美穂と離婚…紬とも離ればなれになるのか-
予想は出来なくもなかったが、実際に見せられると胸を錐で貫かれたような痛みを感じた。
「いいか、お前が心筋梗塞を起さなかった場合、まず5年後に離婚をする。娘の紬は妻の美穂が引き取り、岩手県にある実家に連れて行く。今、十分観測できただろ?お前は自分が人の気持ちが分からない人間、いわゆる適応障害だって事を」
キドは、高志が薄々感じていて目を逸らそうとしてきたことを現実として突きつけた。
「お前がもし素直に死んでいれば、お前の妻は紬を連れてすぐに岩手に帰って就職をする。そこで偶然、高校時代の同級生と同じ職場になる。そいつは素晴らしい人間だった。気配りが上手でユーモアのセンスもある。友達も沢山いるし、何かを自慢したり人の陰口を言ったりは絶対しない、気持ちのいい奴だ。お前とは『真逆』だよ。二人とも、会って間もなく意気投合して、交際が始まり結婚することになる」
キドは高志の家族の未来を雄弁に語っていた。高志は堪えきれずに反論した。
「つ、紬はどうなるんだ?いくらなんでも俺が死んでからすぐに妻が再婚して、新しい父親ができるなんて可哀想じゃないか」
キドは首を振り、薄笑いを浮べて続けた。
「いや、そんなことはない。お前の娘は新しい父親にすぐに懐いたよ。きっとまだ5歳だったこと、父親の人柄、空気が綺麗でのんびりとした田舎暮らしができたのも幸いしたんだろうな。本当の家族のように心を通わせるのにそれほど時間はかからなかった」
キドの言葉に、高志は愕然とした。
休日の朝、ベッドに飛び込んできて「起きて、起きて」とはしゃいでいた紬の笑顔。公園でブランコを押してあげた時の「もっと高く!」という声。それらすべてが、そんなに簡単に消えてしまうのか?俺が何年もかけてできなかったことを、そいつは瞬く間に…。
「…嘘だ、嘘だ…。じゃあ、何で紬は今、暗い部屋に籠もって一人でいるんだ?全然幸せそうには見えない。お前の言っている事はでたらめだ!」
高志はそう言ってキドの方を睨んだ。
「さあな。でも俺は嘘は言っていない。でもな、お前が死なないと二人の出会いはなくなる。新しい家族の幸せもだ。だから、お前も本当に良いときに死んだんだよ」
高志は胸の奥で何かが砕けるような感覚を覚えた。
あれほど深く愛した家族から、こんなにも短期間で忘れ去られてしまう自分の存在とは
一体何だったのだろう。
ただ、紬は今、暗い部屋で一人きりで何らかの困難に直面しているのも確かだ。
父親として干渉すべきなのか、それとも距離を置くべきなのか。高志の心は激しく揺れていた。

「じゃあ、俺は帰る。高志、お前のデータに異常がある。原因は調べておいてやる。お前らはしばらくそこで、自分の『幸せな死』について考えるんだな」
キドが帰ると言ったので、修が驚いて言った。
「先生、こんなところで砂に埋められたまま残されたら、ボク達死んじゃいますよ」
修の言葉にキドは声を出して笑った。
「はは、修、お前、面白いな。もうお前らは死んでいるんだ。これ以上死ぬことはない。それに、ちゃんとお迎えが来るから大丈夫だ」
キドはそう言うとジャガーに乗り、V型12気筒エンジンの低く厚みのあるエンジン音を響かせ去って行った。
「亮司、ZENは使えないか?瞬間移動はできないのか?」
キドが去ったのを確認してから高志は、亮司に尋ねた。亮司はまだ未来観測で見た悲惨な光景のショックが残っているようだった。項垂れたまま小さな声で答えた。
「…さっきから呼び出しているんだが、反応がない。どうやら圏外らしい」
「そうか…じゃあしょうがないな。せめて、この鬱陶しいゴーグルだけでも外したいな」
「…俺はさっきからずっと目を瞑ってるよ。見たくもない、考えたくもない現世のイメージが繰り返し流れている。たまったもんじゃない」
亮司はそう言って深いため息をついた。
修も砂漠に取り残されたのがショックだったのか、また何かブツブツと独り言を呟き始めている。亮司は目を固く閉じ、現実を拒んでいる。高志は空を見上げた。
荒涼とした砂漠に、三人分の絶望だけが埋もれていた。風が砂を舞い上げ、彼らの声を遠くへ運んでいく。まるで、生者の世界から切り離されたように。
コメント